よいチームには必ずと言っていいほどよいリーダーがいる。しかし、リーダーを中心とした求心力は、価値観の多様性を失う危険性もはらむ。理想はリーダー不在のチームをつくることではないか。
チームの求心力が「脆さ」に陥る危険性
最近、いいチームとは何かを考える機会が多いです。まとまりのあるチームを見ると感動するのは、そこにビジョンの共有と、方向性の一致を感じるからです。価値観も共有できている。だからこそ、目標達成のためメンバーが一丸となり、お互いに助け合うチームワークも自然と生まれる。
このようなチームには必ず優れたリーダーの存在があります。方向性を示し、各自が自主的に動ける環境を作り出し、全体が統合されてチームとして無駄なく動いている様です。
その一方で、一体化されたチームでも魅力を感じないときがあります。メンバーが同質化しすぎているように映る場合です。チームの価値観が見事に共有されているのですが、あまりにモノカルチャーに見える。一人ひとりの個性よりも、チーム独自のカラーがどの人からも滲み出て見えるのです。誤解を恐れずに言えば、ベンチャー企業や特異な経営者が率いる会社に見られることが時々あります。メンバーは自らの組織の価値観を信じているのですが、広く社会全体で見た場合の自らのチームの存在感に、無関心なように見えるのです。言い換えると、チームの求心力が強すぎるあまり、遠心力に欠けている。そのようなチームは、閉鎖的になりがちで外部から学ぶ力が弱くなり、環境変化に対応しにくいのではないかと感じます。
求心力がありながら、かつ外に開かれたオープンさを維持するチーム――、これを目指したいものですが、はたしてこの矛盾を包含することは可能でしょうか。この難問を解くには、何を求心力とするか、という問いを考えるのが有効ではないでしょうか。つまり、リーダーは自らの想いをどのように表現し、チームに浸透させるのがいいのか。
リーダーも人間であり、その人の個人的な想いが組織のビジョンをつくるベースになることは間違いありません。しかし、自らの個人的な想いを、メンバーに共有させる危険性に敏感である必要があります。個人の想いは他人が否定するのが困難な、きわめてパワフルかつ厄介なものなのです。それを一段メタレベルで考え、チームの「ビジョン」に昇華させて表現する必要があります。昇華されたビジョンは、メンバーが時に疑い、時に疑問を呈すことができます。その「ゆらぎ」があることで、組織は硬直化せず、より環境変化に耐えうるものへと進化するのではないでしょうか。
さらに言えば、理想のチームとはリーダー不在の組織です。つまりすべてのメンバーがリーダーであり、それぞれが個人的な想いをチームの想いに昇華しようとし、常に共有されるビジョンが更新されるようなチームです。そこでは、メンバーが自立的に行動し、かつチームワークの力を信じているので、全体として実に効果的に動けるようになる。この場合、メンバーはそれぞれ遠心力を有し、かつ求心力も特定の誰かを中心に広がるのではなく、分散してつながっているイメージです。
チームの重要性とそれを率いるリーダーの力に注目されますが、強烈なビジョンを掲げるリーダーのみならず、リーダー不在で機能するチームをつくることができる「リーダー」の存在にもっと脚光が当たってもいいと思います。(編集長・岩佐文夫)