それは近視眼によるものだ、という単純な説明がある。かつての成功に目がくらみ、デジタル技術の台頭を完全に見逃したという説だ。

 しかし、これは事実と一致しない。なぜなら、世界初のデジタルカメラの試作機を1975年に開発した人物は、コダックのエンジニア、スティーブ・サッソンだったからだ。

 この試作機の大きさはトースターに匹敵し、1枚撮るのに20秒もかかった。画質も粗く、写真を見るためには複雑な配線でテレビとつなげる必要もあった。とはいえ間違いなく、破壊的技術としての大きな可能性を秘めていた。

 何かを発見することと、それを用いて何かを行うことは、まったくの別物である。そしてコダックは、みずから発明した技術に投資しなかった、というのが次なる説明だ。『ニューヨーク・タイムズ』紙でのサッソン本人の話によれば、開発したデジタルカメラについて経営陣から返ってきた言葉は、「面白い。でも誰にも口外するな」だったという。

 なるほどと思えるセリフだが、この説も完全に正しいわけではない。むしろコダックはその後、さまざまな種類のデジタルカメラの開発に数十億ドルも投じてきたのだ。

 何かを行うことと、何かを正しく行うことも、まったくの別物である。次なる説明は、コダックがデジタルカメラへの投資の方法を間違えたというものだ。デジタルならではの簡易性を重視するよりも、従来のフィルム写真の性能に近づけようと尽力したことで、市場と乖離したというわけだ。

 たしかに初期の製品群(たとえば2万ドルもしたDSC-100)に関しては、この批判が当てはまるだろう。しかし最終的には簡易性を受け入れ、カメラの写真をパソコンに手軽に取り込む技術を確立し、市場で強力なポジションを築いている。

 上記のどの説も空論にすぎない、なぜなら本当の破壊的変化は「カメラと携帯電話の一体化」だったからだ、とする言い分もある。人は写真を印刷しなくなり、ソーシャルメディアや携帯アプリに投稿するようになった。コダックはこの変化に完全に乗り遅れた、という説だ。

 だがこれも、事実とは少し違う。

 マーク・ザッカーバーグがフェイスブックのコードを書き始めてもいなかった頃、コダックは未来を予見したかのような買い物をしている。2001年にオフォト(Ofoto)という写真共有サイトを買収したのだ。

 これは非常に惜しかった。もしコダックが、「思い出を共有し、人生を共有しよう」という自社の伝統的キャッチフレーズに本当に忠実であったら、どうなっていただろう。

 もしかすると、オフォトを「コダック・モーメント」なるブランド名で再構築したかもしれない(実際には「イージーシェア・ギャラリー」と名付けた)。それを「ライフ・ネットワーキング」とでも呼べる新しい分野のパイオニアに仕立て、人々が写真や近況、ニュースや情報へのリンクをシェアする場にできたかもしれない。2010年の時点で、グーグルの若きエンジニア、ケビン・シストロムを引き抜き、サイトのモバイル版をつくったかもしれない。

 残念ながら、現実世界のコダックは、デジタル写真を印刷する人を増やすためにオフォトを利用した。そして2012年4月、破綻処理の一環として同サイトを2500万ドル以下でシャッターフライに売却。かたやフェイスブックは、同年同月、10億ドルを気前よく支払ってインスタグラムを買収している。2010年10月にケビン・シストロムが共同創業した、社員数13人の会社だ。

 デジタル化によってコア事業が破壊されたコダックが再生する道は、他にもあった。

 富士フイルムの例を見てみよう。リタ・ギュンター・マグレイスが説得力あふれる著書『競争優位の終焉』で述べているように、1980年代の富士フイルムは、フィルム事業でコダックから大差の2位に甘んじていた。その後コダックが低迷し破綻に至る間、富士フイルムは果敢に新しい商機を探り、磁気テープ、光学デバイス、ビデオテープなどフィルムの隣接分野で商品を開発。さらにゼロックスとの合弁事業を通じて、コピー機やオフィスオートメーションなどの事業に進出した。

 今日、同社の年間売上高は200億ドルを超え、ヘルスケアやエレクトロニクスにも参入し、ドキュメントソリューション事業でも大きな収益を上げている。

 コダックから得られる正しい教訓は、それほどわかりやすいものではない。企業は多くの場合、自業界に影響を及ぼす破壊的な要因には気づくものだ。新たな市場に参入するための十分なリソース配分も頻繁に行う。それよりも失敗の典型は、破壊的変化が可能にする新たなビジネスモデルを十分に受け入れられないことだ。

 コダックはデジタルカメラを開発した。デジタル技術に投資もした。さらには、写真がオンライン上でシェアされるようになることさえ見越していた。

 では、同社が犯した失敗とは何なのか。

 写真のオンライン共有は、それ自体が新ビジネスであり、印刷事業を拡大する手段ではない――この可能性に気づけなかったことなのだ。