がんばることはいいが、それが長時間働くことを意味してしまうと、成長の選択肢は狭まってしまう。費やした時間より、生み出した成果、そして、生み出す効率となる「生産性」を社会の価値観の真ん中に据える必要がある。
「忙しい」が美徳とされる社会
新入社員時代の話。新入社員研修が終わり配属されて間もない頃、気にかけてくださっていた他部署の部長さんとエレベーターでばったりお会いしました。この部長さんは、「よっ、忙しい?」と声をかけてくださいました。僕は、まだ戦力にもなっておらず「いえ、暇です」と即答したら、「こういう時は、暇でも『忙しい』って言うもんだよ」と仰り、エレベーターの中の人の笑いを誘いました。洒脱な人なんです。
もちろん僕もこれが社会人の「たしなみ」であることを間もなく理解しました。
日本の企業社会では、「忙しい」ことが恰好いいこと、必要とされていること、できる人の証であることなどの意味合いがありそうです。一方で、「暇」なことは、やるべきことをやっていないこと、仕事に全力を出していないこと、必要とされていないこと、などを想起させるように思われます。
これらの言葉のイメージをすべて否定はしませんが、「忙しい」という言葉に「効率が悪い」、「暇」という言葉に「手際よく仕事を片付けた」というニュアンスを入れることはほとんどありません。忙しさを肯定的に捉える考え方を変えない限り、日本の未来はないようにすら感じます。
これからの日本は人口減少社会を迎えることになり、労働人口が低下します。これをカバーするには、労働生産性を上げるしかありません。
また一方で、欧米企業との比較においても、日本企業の生産性の低さは著しい。GDPでは世界3位の日本ですが、生産性では、G7のなかで、2006年以降、イタリアと最下位争いを演じています。つまり人口が多いからGDPは3位ですが、その効率面では、経済破たんの危機に晒されるイタリア並みなのです。
これまでの日本は、仕事の成果を「がんばり」で出そうとしてきたのではないでしょうか。朝早くから夜遅くまで会社で働く姿を「勤勉」と評し、誰よりも多く働くことが成果を出すことであるかのような感覚を、多くの人が持ちえていたのではないか。
一生懸命仕事に向き合うことをまったく否定しませんが、「長時間働くこと=一生懸命」の図式の誤解は正すべきであり、仕事で生み出した成果に着目する社会に変えないと、この仕組みは近いうちに破たんすると思います。
「暇な人」が必ずしもいいとは限りませんが、「忙しい人」に変わる、仕事人としての新しいロールモデルが必要なのだと思います。「誰よりも仕事の成果を出していながら定時で帰る人」「誰よりも組織に貢献していながら、家事もこなしている人」「1日で人の10倍の量の仕事をこなす人」でもいいです。
実は自分の仕事に人生を賭けているような創業経営者の中にも、実際の仕事時間が物凄く少ない人は珍しくありません。
ある観光産業の経営者は、僕からみるとストイックと思えるほど自分や家族のための時間を確保されています。それでいながら業界で革新的な取り組みに先陣を切るリーダーです。
あるアパレルメーカーの経営者は、仕事以外の時間を充実させることこそ、仕事の成果を出す秘訣と考えられており、会社にいる時間より外で過ごす時間の方が圧倒的に多いようです。この会社は生産が追い付かないほどの人気商品を生み出しています。
ネット系ベンチャーのある社長も、仕事時間は「1日3時間」と言い、それが結局一番成果を出せるスタイルであることを、自ら見出したと仰ります。この会社も急成長を遂げており、そのスピードを落とすつもりもないようです。
このように、長時間労働を否定することは、必ずしも「仕事はぼちぼちでいい」ということではない例は数多くみられます(もちろん、「私生活を重視した仕事はぼちぼちの人生」も何ら否定するものではありません)。
世の成功物語には、「朝から晩まで」という話が多いですが、成功の秘訣を投入した時間で語る以外に、いかに生産性を高くしたかで語るストーリーをもっと増やしていく必要があります。(編集長・岩佐文夫)