なぜ、同じ「経営」をテーマとしながらも、経営の実務と学問としての経営戦略の間には、これほどまでに大きな隔たりが存在するのか。たしかに、実務家が経営戦略の理論をそのまま実践しても、短期的な売上には貢献しないかもしれない。しかしだからといって、経営戦略は実務の役に立たない、と決めつけるのは早計である。経営の実務と学問としての経営戦略を適切に結びつけることで、その真価が見えてくる。本連載では、長く実務の世界に身を置きながら学問としての経営学を探究し続ける、慶應義塾大学准教授の琴坂将広氏が、実務と学問の橋渡しを目指す。
「最適な処方箋」と
「普遍的な法則性」の二兎を追う
はたして、経営学は何を目指しているのだろうか。
その形成当初から、経営学は日々の経営に資するノウハウ(Knowhow)を提供することを目指してきた。しかし、現代はそれだけにとどまらない。社会、経済、人の心に多大な影響を与えうる、経営という行為とそれを行う個人と組織が、どう変遷し、どう存在し、どう動くかの「普遍的な法則性」を解明するべく議論を重ねている。
すなわち現代の経営学は、実学として、ノウハウや経営に対する「最適な処方箋」を提供すると同時に、科学として、経営という行為とそれを行う組織と個人に関する「普遍的な法則性」を示すという、二兎を追う狩人なのである。
ただ、それは容易ではない。なぜなら「普遍的な法則性」は、必ずしもある特定の個人や企業に対する「最適な処方箋」にはなりえず、その逆もまた然りであるからだ。
経営学の理論やフレームワークとして知られる「普遍的な法則性」は、できる限り多様な産業、企業、製品、時間軸に応用できるよう一般化されている。そのため、そのままでは個別企業がすぐに使える「最適な処方箋」にはなりえない。たとえば、マイケル・ポーターの3つの基本戦略は「コストリーダーシップ」「差別化」「集中」だが、それを理解しただけでは自社がどう明日から行動すればよいかはわからないだろう。
同じように、ある産業の、ある企業の、ある製品の、次の1週間の販売計画に対する「最適な処方箋」はきわめて特異性が高く、個別の状況に最適化されているため、いかなる状況にも当てはまる「普遍的な法則性」にはなりえないだろう。初代iMacがフロッピーディスクもシリアルポートも廃止したのは、結果的に「最適な処方箋」ではあったものの、それを予測できる「普遍的な法則性」は存在しなかった。世の中を変えるような製品やこれまでにない産業領域は、すでに確立されている「普遍的な法則性」からは生まれないのである。
したがって「最適な処方箋」を求めている人が、誤って「普遍的な法則性」を企業経営に活用しようとすると、「なんだ、この薬はまったく効かないどころか、副作用だらけではないか」と激怒することになる。同様に、「普遍的な法則性」を期待している人が誤って「最適な処方箋」を用いて経営学を理解しようとすると、「なんだ、経営学は学問の体をなさないぐちゃぐちゃな議論ではないか」と落胆侮蔑に暮れることになってしまうのである。
この状況は、経営学を活用して経営に役立てたいと考えている実務家にとっても、また経営学を探求する経営学者にとっても不幸な状況ではないか。それは、私自身の実体験からも身に染みて感じていることでもある。