日本企業の「生産性が高い」は、過去の産物か

 実は「生産性」というテーマは、日本企業にとって新しいものではなく、戦後の日本経済立て直しの最大のテーマでもありました。

 戦争で疲弊した経済を立て直すため、日本は生産能力を上げる必要がある。しかも設備投資が十分にできない時代、生産量の拡大は不良品をなくすこと。つまり生産効率の向上が喫緊の課題でした。そこで徹底した品質管理の向上が実現していくのです。GHQは日本に民主主義を広めるために、ラジオの普及を重視しましたが、当時の日本はラジオさえまともに作れない。生産過程で真空管を壊してしまうのです。そこでGHQはアメリカの品質管理を導入させ、その流れでデミング博士が来日。後の品質管理のシンボルとなる「デミング賞」も、日本にとっての恩人であるデミング博士の名前をとって命名されました。

 日本企業の学習能力は素晴らしく、1970年代には、「Made in Japan」が、品質の高い製品の象徴として世界を席巻します。資源の貧しい日本企業は、生産技術を高め、高い生産性で付加価値の高い製品をつくり出し、世界第2位の経済大国になったのです。

 つまり「生産性」とは日本企業の強みを表す言葉でもあったのです。しかし、1990年代以降、経済のソフト化が進むにつれて、競争力は製造業の生産性のみでは実現しなくなりました。工場のみならず、ホワイトカラーの生産性、そしてサービス業の生産性が、新たな課題となったのです。

 しかし、日本企業はこの課題を解決できないまま今日に至りました。80年代のバブル経済は金融の力が猛威をふるい、企業の根本的な課題を棚上げしました。バブル崩壊後に招いた「失われた20年」は、まさにサービス経済、デジタル経済で付加価値を作り出せなかったことから招いたとも言えます。

「生産性」を上げるには、アウトプットの「売上げ」を伸ばすか、インプットの「投入資源」を減らすかしかありません。前者は付加価値の高い製品やサービスの開発が重要になりますが、日本企業は、素晴らしい技術でもそれを顧客の付加価値へと転化するのが苦手で、高価格商品をつくるのが得意ではない。一方で、投入資源の削減には限度があります。コピーの枚数を減らす、電気を消すという地道なプロセスだけでは大きなインパクトは出ないし、労働力の削減は疲弊の元です。デフレの時代が続いたのも、生産性の向上が実現せずに労働価値を上げることができなかったことも大きな要因でしょう。

 ちょうどいま、「働き方改革」が叫ばれています。残業や長時間労働が見直されようとしています。これ自体素晴らしいことですが、問題の本質は、仕事時間の長さではないと感じています。むしろ、仕事時間の密度を濃くすること。短い時間で付加価値を出せるような仕事をすること、そしてその環境を企業や社会がつくることです。

 今回、伊賀泰代さんの新刊『生産性』を編集しながら、いまこそ日本企業の課題は生産性だと実感しました。そもそも、短時間で何かをやり遂げることは、誰もが望んでいることでしょう。仕事においても、その方がやりたいことがたくさんできる。仕事以外の自由な時間も増える。やるべきことに追われつづけると、長期的な価値の創造や根本から仕事を見直す時間が失われ、近視眼的な仕事の仕方になることは自分も経験があります。

 そしていまの日本では、労働賃金の低い国を相手に戦うには、生産性を高めて付加価値の高い事業を築くしかありません。

 個人の働き方を考える上でも、企業での業務の進め方や事業を見直す上でも、本書『生産性』は多くの示唆を与えると考えます。一人でも多くの方に読んでいただければ幸いです。(編集長・岩佐文夫)