経営学は科学であり、実学である。慶應義塾大学の琴坂将広准教授によるそんな問題提起がきっかけとなり、一橋大学の楠木建教授からこの問題を一緒に考えたいという提案をいただき、両者の対談が実現。実務から学問の道へと進んだ琴坂氏と、学問の道で探究し続けて来た楠木氏。2人の気鋭の経営学者が、それぞれ異なる立ち位置からこの難題に対する見解をぶつけ合った。対談後編。(構成/加藤年男、写真/引地信彦)
何が経営論の良し悪しを分けるのか
楠木建(以下、楠木):前回に続いて、琴坂さんと議論したいもう1つの論点を、こちらの図にまとめました(下図参照)。
前回は、基本的に右の経営学と左の経営論が違うという話でした。これはあくまでも「違い」でありまして、どちらが良いという話ではない。当たり前の話ですが、アカデミックな経営学にもピンからキリまでありますし、実学的な経営論も質の高いものからポンコツなものまでさまざまです。
琴坂将広(以下、琴坂):はい。経営学と経営論は独立していて、上下関係にはないということですね。

一橋大学大学院 国際企業戦略研究科 教授
1964年、東京都生まれ。1992年、一橋大学大学院商学研究科博士課程単位習得退学。専攻は競争戦略。著書に『ストーリーとしての競争戦略』『「好き嫌い」と経営』(以上、東洋経済新報社)、『好きなようにしてください』(ダイヤモンド社)、『戦略読書日記』(プレジデント社)、『経営センスの論理』(新潮社)などがある。
楠木:そうです。問題はこの図の縦軸の中身ですね。それぞれの良し悪しの基準がどこにあるのか、ということです。
アカデミックな経営学では、構造化されたマーケットでプレーヤーがその基準を共有しています。そのため優劣やクオリティを測るとき、「これは一流の研究だ」「これは二流だ」と話がまとまりやすい。単純化すれば、権威があるとされるジャーナルに採用されるのが「一流の研究」ですね。
一方の経営論はどうかというと、流通するのがフリー・マーケットですから、それほど明確な良し悪しの基準はない。たとえば、ドラッカー、ポーター、クリステンセン、コリンズ、こういう人たちの仕事は多くの実務家に影響を与えましたが、アカデミックな業績ではありません。ただし、結果からみれば、明らかに「優れた経営論」ですね。何といっても実務に対するインパクトがあった。「インパクト」と言ってしまうと、ちょっと感覚的な話になってしまいますが。
僕が琴坂さんのご意見を知りたいのは、優れた経営論の基準とは何かということです。たとえば、単純に本が何冊売れたかでは測れませんよね。いま売れっ子のビジネス書の「経営論」が本当に優れているのかというと、必ずしもそうではない。琴坂さんは、この点どうお考えでしょうか?
琴坂:私も、第一に、影響を与えたかという軸はある程度正しいと思います。ただ、私が考える経営論の基準は、それを読んだり聞いたりした人間のパフォーマンスが、それにより上がったかどうかだと思っています。なぜかというと、その発信に影響力があったかどうかを大きく左右する一因は、マーケットが求めていたかどうかであるからです。
しかし、マーケットがその経営論を求めていたかどうかは、単純にその時代にフィットしたかどうか、ということにも大きく影響されます。たとえば、米国ではトランプ氏が大統領に就任しましたが、それはマーケットが求めていたからではないでしょうか。彼を選びたい人が一定数以上いたことは事実ですが、それが良いか悪いかは、まだ答えが定まっていません。
私の今回の連載では、かなりの字数を使って1つの理論が生まれた時代背景を述べています。それは、ある理論が受け入れられる場合、その時期のマーケットにそれを受け入れる土壌があったからだという解釈に基づいています。すなわち、ある経営論が広く影響を与えたかどうかは、その時代背景にも大きく影響されるので、必ずしもその経営論の質の優劣とは直結しないはずです。
また、影響を与えたとして、それが良い影響であったか、悪い影響であったかは別の問題ですよね。その理論を信じて失敗した経営者もたくさんいるはずです。そのため、その考え方が需要者をあと押ししたかどうか、需要者をサポートする組織を内面から支援できたかどうか、という基準が追加されます。
私が考える経営学の良いか悪いかの基準もやや似ていて、それによって人類全体の理解が進んだかどうか、未来の人間の行動が良い方向に変わったかどうかです。トップジャーナルに掲載されたからといって、それは評価の1つの指標にはなるでしょうが、その論文が良い論文とは必ずしも言えません。
楠木先生のおっしゃるインパクトとは何でしょうか?
楠木:琴坂さんの言う影響力に近いですね。ただ、僕がインパクトの総量よりも大切だと思っているのは、その持続性です。科学的真理ほど長い時間ではないにしても、一瞬ではなく、長期間にわたって受け手である実務家の頭の中に入っているということです。あっさり言えば、ベストセラーよりもロングセラーを目指す、ということですね。すべての実務家を相手にしなくてもいい。ベストセラーにならなくても、はっきりとターゲットを定め、その人たちの頭に長く残してもらえるもの提供するというのが、経営論のあるべき姿ではないかと思っています。
琴坂:マーケットから入るということですね。マーケットが何を求めているか、何を知るべきか、というところからアプローチして、それを目指していくという姿だと解釈しました。それに比較すると、私はどちらかというと身勝手なところがあり、「オレの言うことを聞け」に近いことを言っているのかもしれません。
楠木:それはおそらく、供給サイドの「身勝手さ」がどのように表に出るかの違いだけでしょう。僕の場合は、完全に顧客をターゲティングしています。ターゲットから外れると、読んでいただいても「金返せ!」という反応になる。実際にそういう匿名のメールをときどきいただきます。こういう場合、ほとんどスルーしますね。その意味では僕も身勝手です。
ずいぶん昔、僕が駆け出しの研究者だったころに神戸大学にいらした加護野忠男先生から聞いた話です。加護野先生がハーバード・ビジネス・スクールにいらっしゃった際、前回も話題に出てきたジョセフ・バウアー先生に「先生のおっしゃる命題はどうやって正しいと証明するんですか?」と聞いたそうです。するとバウアーは、「筋のいい実務家に話して、“I see.”と言われればそれが証明だ」と言った、というんですね。
僕は、この話を聞いて非常にスッキリした気分になりました。これが経営論の健康な基準だと思い、アカデミックな研究から路線変更をするきっかけになりました。
琴坂:なるほど。楠木さんは、オーディエンスを徹底的に理解して、その理解をもとにした経営論をオーディエンスに打ち返し、それが評価されるか否かでその質を図っているのだと理解しました。だからこそ、一流の経営者にも評価される「芸事」としての経営論を生み出せるのだと思います。楠木さんは、経営論を極めることによって、どのような人に最も影響を与えたいと思っていますか?
楠木:僕のターゲットは、規模や産業を問わず、また会社の肩書きに限らず、ある「商売の塊」を任されている人々です。事業経営者といってもよいですね。僕は究極的には、その商売の持続的な収益力の向上に少しでも役立ちたいと思っています。個別の事業でしっかりと儲けが出るから、雇用もつくれるし、税金も払える。国や社会にしても税収が増えれば意味がある。マクロでいえば、僕が少しでも役立ちたいと思っているのは、税率を上げずとも税収が増大することですね。ようするに、メインターゲットは特定の機能領域のスペシャリストやプロフェッショナルというよりも、ゼネラル・マネジャーですね。
琴坂:私の場合、自分の経営論のオーディエンスとなってくれているのは事業開発をしている人です。スタートアップをしているか、新しい事業をつくっている人たち。まさに、創発的な戦略を練り込んでいくと役に立ちそうな人たちです。そうなると、私の経営論のあり方は、楠木さんの経営論のあり方とはまた違ったものになりそうですね。
楠木:経営論の質が良いか悪いかの判断は、そうした自分のターゲットや土俵の定義とは無関係ではありませんよね。そこが経営学と経営論の良し悪し基準における根本的な違いだと思います。