辞令一つで、社員を自由に配置できる時代はすでに終わった。いまや一人ひとりの働き手の力を活かすには対話が欠かせない。社員も、会社の命令に「素直に従う」弊害を自覚すべきである。
会社員であっても、自分の納得した仕事をする時代
多くの企業が人事異動を実施する季節となり、「この度、○○部への異動を拝命され」という連絡をもらうことが多くなります。この「拝命され」という表現は、儀礼的に使われているのかもしれませんが、いつも大きな違和感を覚えています。
「拝命」とは命令を受けることを丁寧に表現した言葉です。たしかに組織に属するサラリーマンは、会社の命令に従うことが当然の義務であり、それを受け入れていることが会社員になるということです。ごくごく、社会のルール通りではありますし、組織人としては正しい。
しかし、会社の命令だからと言って、急な引っ越しも受け入れる、自分の望まない仕事も受け入れる、ということがあるのなら、これは果たして企業にとっても、働く人にとっても健全だろうか。組織人であっても、自分の住む場所や、する仕事を「命令だから」と受け入れる以上の主体性があってもいいのではないかと思います。よほどの覚悟がない限り、命令に従うことは、他人のせいにしてしまう可能性が残ります。命令されてやった仕事がうまくいかない時、「会社が悪い」となりがちなのです。うまくいかなかった本当の原因がどこにあったかとは別に、当事者が「自分の責任ではない」と考えてしまうことが、本人の成長を阻害します。
会社にとっても、このような働き手が本当に好ましいか、再考すべき時代だと思います。目指すべきゴールが明確で、その達成手段も見えている場合、組織の命令は機能しやすいです。成長経済期は、いいものを安く作れば売れたので、そういう時代だったでしょう。しかし、いまは、何が売れるかだれもわからない時代。命令に素直に従う社員が必要かどうか。自分の頭で考える人を増やさないといけない時代に、辞令の出し方も、変えていく必要があるのではないでしょうか。
会社員ともなれば、大学を卒業したての若者を除くと、もう一人前の大人であり、社会人です。誰か(組織)に命令されたからやります!というのは大人の行動ではないはずです。
この「命令→従う」関係が強すぎることが、かえって企業の活力を失わせているのではないでしょうか。企業が辞令の力を盾にすることで、働く人に「当事者意識をもたなくてもいい」というメッセージを送ることになります。企業も、一人ひとりの社員が自発的に新しいことに取り組んでもらいたいはずです。このような辞令を素直に受け入れる社員が、変革できない企業体質を増長させてしまうのではないでしょうか。
かつては、組織の要請に応えることが美徳とされていました。自分のことより企業の事情を優先する。そのために、社員が我慢をするのは当然のことでした。しかし、組織に属する人にとって、よい我慢と悪い我慢があります。一つの事業を成し遂げるには、苦しい局面も乗り越えなくてはならない。そこには、苦境に耐える忍耐力が必要であり、その修羅場を乗り越えてこそ人は成長します。それこそ「よい我慢」です。しかし、企業の方針に納得していないにもかかわらず「命令だから」と従ってしまうのは、「悪い我慢」ではないでしょうか。
悪い我慢は、長い目で見るとその人の心身を蝕んでしまいます。そして、自ずと組織の中で自発的な行動をとるというマインドセットを失わせてしまいます。企業にとっても「悪い我慢」をする社員は、一見「管理しやすい」かもしれませんが、このような我慢から、創造的なパワーが生み出されるでしょうか。
もちろん、企業の辞令が本人にとって望ましいものもたくさんあるでしょうから、必ずしも「拝命された」人のすべてが当てはまるわけではありません。とはいえ、企業も働く一人ひとりの力を活かしたいと本気で考えるならば、一方的な命令ではなく双方向による対話によって、一人ひとりの社員が本気になれる処遇を検討すべき時代だと思います。(編集長・岩佐文夫)