経済学者タイラー・コーエンは新著The Complacent Classで、米国人の「無関心」が社会の変革を阻んでいると指摘する。その背景には何があるのか。
経済学者タイラー・コーエンは前著『大格差』で、機械の知能がいかに世界を変えるのかを論じた。そして新著The Complacent Class(無関心階級)では、変化を阻んでいる要因について書いている。
具体的には、米国は最近の数十年間で変化を厭う傾向を強め、それによって米国人の仕事、余暇、地域コミュニティのあり方が変容していったのだという。
その主張について、私はコーエンに説明を求め、米国の企業、職、政治への影響を尋ねた。以下の会話は、明確化と簡潔化を図り編集したものである。
――本書であなたはこう書いています。「米国人は実際のところ、変化を先延ばしに、あるいは完全に回避することに、以前よりもはるかに尽力している」。その例としてどんなものがありますか。
コーエン(以下略):自分のコミュニティが変わらないよう努力しています。住んでいる場所で、自宅の価値を下げるような出来事が何も起きないようにしたい。あるいは、福祉プログラムの受給額が減らないよう努力しています。
近隣地域を可能な限り安全にすることも含め、人は基本的に守りに入っています。社会で生じるほとんどのイノベーションに対して、ある種の予防原則を適用している。さまざまな方法で、現状を守ることに努めているわけです。
にもかかわらず、ドナルド・トランプの大統領当選によって、政治の激動は大方の予想よりも早く起きていますね。私自身の予想も超えている。本書でこのことを予測しましたが、それが刊行前に現実になるとは思いもしませんでした。
この激動への反応として起きている抗議デモや社会運動は、多くの面で1960年代の再現のようにも思えます。ただし、ソーシャルメディアがすべてを加速させているという、非常に興味深くもちょっと怖い実験が進んでいます。現在の私たちにとって、1960年代は非常に重要かつ教訓的な時代ではないでしょうか。
――「無関心階級」を象徴する特定の社会的集団はありますか。
米国ではいくつかの異なる層が、無関心階級を形成していると思います。高い教育を受けたエリート層は、すでにとても安泰なポジションにいて、いま自分が持っているものを失うことを避けねば、というのが基本的な姿勢です。
下位中間層の場合、生活がより厳しく、賃金があまり増えていない。したがって、この人たちは無関心ではないと思えるかもしれません。でも、彼らを過去の歴史に照らしてみると――たとえば1930年代とか、南北戦争の時期、そして1960年代に比べると、「ただ我慢してやり過ごそう」という姿勢が強くなっています。余暇の質を充実させて、嫌なことは忘れて人生を歩んでいこうと考え、至急の変革を求めて闘おうとはあまりしない。この傾向が以前より強いということです。
はたからは無関心と見えない、または無関心でいるべきではない人々にも、これは当てはまります。彼らも結局、現状に甘んじることが非常に多いのです。
――そんな現在は、テクノロジーが大きく変わっている最中です。特にIT、機械学習、そして今後は人工知能。技術進歩はあなたの理論にどう関連するのでしょうか。
たしかに大きな変化が進んでいますが、それは特定の分野に集中しています。20世紀における「進歩」の典型的概念である、人が物理空間でどれだけ速く移動できるかを考えてみましょう。これは長い間、向上していません。飛行機の速度は上がっていない。車は渋滞が増えている。あちこち移動するのは実際にはより難しくなっていて、物理空間は以前よりダイナミックではなくなっています。そして米国で製造するのも、以前よりハードルが高い。
それよりもずっと簡単なのは、家にいて生活のあらゆる物事を自分のところに来させることです。アマゾンのアレクサやエコーに話しかければ、モノを注文できる。インターネットを使う。ネットフリックスを観る。人々はますます家に籠るようになり、物事を変える必要性を感じないで、この消費パターンへの満足を深めています。
もちろん、これによって個々人が得るものも大きい。でなければ誰もやらないでしょう。けれども私が心配なのは、物理的・地理的空間におけるダイナミズム、流動性、混ざり合いが減ることの集団的な影響です。その影響は、今日の米国の姿に表れています。