「面白さ」を通じた承認
こうした上下関係のなさや、明確な承認プロセスがないことで、各人がやりたいことができるようにも思えるかもしれない。実際にはそういった部分も少なからずあるが、同時にこれは、他の人に評価されなければ企画は成立しないことも意味している。
社員同士は互いに率直に反応するために、ある社員の表現を借りれば、「面白くないことを言った場合は、『ふーん。』で終わってしまう」ことも多いという。身近な例で想像してもらえばわかると思うが、これはこれで結構シビアだ。
この意味で、「ほぼ日」では規則で定められた形式的な手続きの代わりに、社内での相互評価によって組織としての認証をかけている、とも言える。個々の「動機」でつくられた企画は、さまざまな人の意見や反応を経ることで、組織の決定として「ほぼ日」内部で通用していく。しかし、それと同時に、出発点として個人の「動機」が確認されているために、「個人のやりたいこと」と見なされつづける。
こうした仕組みが働くことで「ほぼ日」では、日常的に「組織」を意識する場面が希薄になる。仕事に関するコミュニケーションが、階層的な権限や規則の結果としてではなく、常に個人の考えやアイデアとして受け取られるからだ。これは「ほぼ日」らしさの最たるもので、その「組織らしくなさ」を強烈に印象づける。
少し専門的な話になるが、組織社会学において「組織」と言うとき、その典型的なイメージは「官僚制組織(ビューロークラシー)」にある。マックス・ウェーバーによるまとめを借りれば、(1)規則と、規則に規定された権限関係、(2)職位の階層性と分業、(3)公私の分離、(4)文書化による伝達と記録が基本的な特徴とするものだ。こうした仕組みによって、組織は大勢の人が同時に日々の業務を滞りなく行えるように効率化し、また組織内部の構成員が変わったとしても問題なく存続できるようになる[注]。
「ほぼ日」の仕組みは、こうした基本的な条件を運営面で否定するか、少なくとも強く抗う。組織全体を貫く規則の制定を嫌って意識的に避け、役職による命令―統制よりも、互いの説明や納得を求める。組織図の上でも同じ人が異なる場所に何重にも出現するように、分業もあいまいさと自由度を残す。
最終的なアウトプットは必ず組織として――つまり社員個人のものではなく、「ほぼ日」のものとして――なされるという点で公私の区別は明確にあるが、組織内で個々人の個性や、趣味の範囲の話題も、いつの間にか企画として結実する事例も多い。その点で、「ほぼ日」は意識的に社員の私的な側面を喚起し、しかもそうすることで、コンテンツのバリエーションを増やしてもいる。企画で必ず個人の「動機」を問うことは、組織の中の個人に注意を集め、組織のなかでも日々の生活を営むユニークな個人であり続けるよう意識づける契機でもある。
「ほぼ日」はこうした仕組みによって、個人の関与が強調されることで、組織の存在感が薄められている。同時に、個人は一つひとつのプロジェクトで地位や肩書を頼れず、自分にとっての「動機」を出発点として、他者を納得させていかなければならない。プロジェクトの規模や必要な予算が大きければ大きいほど、多くの人を巻き込んでいかなければならず、それはもちろん相応の企画の「面白さ(≒動機)」や必然性、説得力を要求する。
組織論においては、企画など知識労働が中心となる組織では、個人の自発性を推奨し、一定程度の自律性を与えることが重要だとされてきた。この意味で「ほぼ日」の仕組みは、単に独創的であるというだけでなく、そうした事例の一つとして、興味深いケースである。
次回更新は、6月27日(火)を予定。