勘や経験に頼らず、データに基づく意思決定を下す重要性は広く理解されている。ただし多くの場合、それは「データ・ドリブン」ではなく「データ・インスパイアド」にすぎないと筆者は指摘する。自分なりの結論や思い込みを補強するようなデータしか目に入っていないのだ。そうした認知バイアスを回避して、真にデータ・ドリブンの意思決定を下すために、どうすればよいのだろうか。
「私たちは神を信じる。神以外はデータを示さなければならない」
私は統計学者として、統計学の先駆者W. エドワーズ・デミングのこの言葉が好きだ。しかし社会学者としては、多くの意思決定者がデータを追いかけることに執心しすぎだと、警告せざるを得ない。無知から脱することはできても、それで意思決定が向上することはない。
では、意思決定とデータの最適のバランスは、どこにあるのだろうか。その出発点となるのが、「デフォルトの判断」を明確にするというシンプルな習慣だ。
意思決定で重要なのは、データを探す前に、判断の文脈を組み立てることである。残念ながら、このスキルはデータサイエンスの授業では扱わない。社会科学や経営科学(マネジメント・サイエンス)を学ぶ必要がある。
さらに残念なことに、このスキルが最も必要とされる分野でも指導していない。つまり、データサイエンスのプロジェクトを率いるために必要なスキルとして扱われていないのだ。
不確実な状況で意思決定を下すための規律を学ぶ統計学でさえ、演習の大半は、文脈があらかじめ決まっている。教官が仮説を立てて、「Aおよび/または(and/or)B」という構造の質問を学生に提示するため、正しい答えは1つしかない。正しい答えが存在するということは、そこに至る意思決定はすでに下されている。
多くの意思決定者は、数字を見て、意見を組み立てて、判断を下すことを、データに基づく「データ・ドリブン」だと思っている。しかし残念ながら、そのような意思決定は、せいぜい「データ・インスパイアド」だ。
数字の中を泳ぎ回り、感情的なティッピング・ポイント(閾値)に到達したら決断を下す。データにインスパイアされた意思決定は、たしかに数字の近くにあるが、数字が決断を導くのではない。その決断は、数字とは違うところから生まれている。意思決定者の無意識のバイアスの中に、最初から決断があったのだ。
意思決定にデータを使う訓練を受けていない場合、このようなアプローチは認知バイアスの影響を受けやすくなる。
データにインスパイアされた意思決定の大きな問題点は、確証バイアスの存在である。確証バイアスが働くと、自分がすでに持っている視点に合わせて事実を理解しようとする。データに基づいて結論を出した後に、自由にゴールポストを動かせるなら、誰でも無意識に動かすだろう。それを防ぐ方法は、あらかじめゴールポストを決めて、後から動かしたくなる誘惑に耐えることだ。
だからこそ行動経済学者は、情報に触れる前に、判断基準を決めるように心がけている。これは確証バイアスに対処する有効な手段であり、私たちの多くに習慣として染み付いている。たとえば、チケットの値段を調べる「前」に、自分の予算の上限を確認するだろう。
一方で、判断基準を決めない場合、心の奥で自分がすでに決めたことを追認するようなデータを、選択的に並べることもできる。データに関係なく自分がやりたいようにやる、それでいいと思うためにデータを利用するのだ。人間は自分でも気がつかずに、そうしているものだ。
もう1つ、意思決定で陥りがちなのが「イケア効果」だ。これは、自分が努力した結果を過大評価するという心理である。
ある作業に時間を投資した人は、完成したものが有害なガラクタだとしても、そのガラクタを気に入って、それに対する認識さえ変わる。「そうは言っても、新しい試作品の動きはそんなに悪くない。このまま発売できるだろう……」と、自分を納得させようとするのだ。こうして世の中に、とんでもないものがあふれていく。