アンカーには拘束力がある

 ロイ兄妹から入札額には自信があると告げられると、ナンは「まるで競売場にいるみたいだ。80、90、次はどうするんだ」とコメントする。これは、自分に有利な入札を引き出すためのアンカーである。

 アンカリングは、交渉の強力な手段で、基準点、つまりアンカー(碇)を設定して、その後のオファーの価値に対する相手の認識に影響を与えるのが狙いである。アンカーは、一般的に交渉の最初のオファーとして用いられる。すなわち、交渉の場で最初に提示されるオファーは、たとえそれが受け入れられなかったとしても、最終的な結果に大きな影響を与える。

 たとえば、車の売り手は、希望価格を高く設定すると、車の価値に対する買い手の認識を固定し、その後の交渉を有利に進めることができる。逆に、買い手が低い金額でアンカーを設定すれば、車の価値に対する売り手の認識を買い手に有利にシフトさせられる。

 ナン・ピアースは、80億ドルと90億ドルのアンカーを落とし、どのような入札額なら応じる可能性があるかを示した。兄妹で数分検討したのち、シヴは80億ドルを提示する。それではダメだと言われ、シヴたちは再び相談する。父親が90億ドル台を提示してくるかもしれないと推測し、最終的に思い切って100億ドルで勝負に出ることにする。

 最初のアンカーは、交渉における最終的なオファーに強い影響を与えることが研究で示されている。しかし、アンカーの効き目は、適正なアンカーを設定するだけの十分な情報を持っているかどうかにかかっている。ナン・ピアースにはそれがあった。しかし、交渉対象の価値についてよく知らなければ、不適切なアンカーを設定してしまう可能性がある。ロイ兄妹の100億ドルという高すぎる入札額のように、アンカーは、その後のオファーを引っ張る拘束力のある数字なのである。

感情は交渉を狂わせる

 ローガンと子どもたちとの間の入札合戦では、一貫して激しい感情の高まりが見られる。兄妹は、父親を負かしたい一心で、慎重な分析では考えられない提案をする。筆者と同じくハーバード・ビジネス・スクールの教授であるディーパック・マルホトラは、同僚数人とともに、交渉やオークションの当事者が強い感情を抱いた時に起こる「競争心の覚醒」という心理現象の危険性について書いている。

 競争心が覚醒した交渉の当事者は、強気な要求や極端な提案をしたり、過度に防御的になったり理屈っぽくなったりする傾向がある。その結果、対立が激化し、双方に利益のある合意に達することが難しくなる。また、ロイ兄妹のように、合理的でない提案をしてしまうこともある。勝ちたいという欲求のほうが、健全な意思決定よりも重要になってしまうのである。そのため、M&A(企業の合併・買収)の競争入札に関しては、よく知られる知見がある。つまり、「買い手はえてして高すぎる価格を提示し、多く払いすぎる」のである。

 さらに広い意味でも、感情はさまざまな形で交渉を狂わせる。怒り、いら立ち、失望などのネガティブな感情は、合理的でない意思決定や敵対的な行動につながりやすい。一方、高揚や熱意といったポジティブな感情も、潜在的なリスクを見過ごしたり、楽観的すぎるオファーを出したりする原因になる。ネガティブな感情もポジティブな感情も、状況を正確に把握し、合理的に判断する能力を低下させ、交渉の成功を困難にするのである。

実質的な交渉だけでなく、プロセスの交渉も行う

 ロイ家の兄妹と父親が行ったような入札合戦は、過当競争につながりかねない危険な領域である。この罠を避けるために、兄妹は価格提示の前に、プロセスについて交渉することができたはずである。たとえば、おかしな入札(他の入札者の提示額に1ドル上乗せした入札など)ができない1ラウンド制の入札に同意するよう、ナンに求めることもできたはずだ。

 交渉プロセスの交渉には、基本的なルールの設定、タイムラインの合意、各当事者の役割・責任分担の明確化などが含まれる。ビジネス交渉では、各人の発言時間や休憩時間など、商談の形式について取り決めることもある。このようなルールによって、交渉の構造が明確になり、両当事者とも主張の場を得て、安心できるのである。

 プロセスが誠実に交渉され、双方の合意が形成されると、公正さや透明性が生まれる。これによって、交渉はより協力的なものとなり、相互に有益な合意に達する可能性が高くなる。

 このドラマの登場人物がしているような10億ドル単位の入札合戦など、現実離れしていると思うかもしれないが、交渉の基本は同じである。今度、あなたのビジネスが危機に陥った時には、ぜひこれらの教訓に照らして我が身を振り返ってみてほしい。


"What HBO's 'Succession' Can Teach Us About Negotiating," HBR.org, March 31, 2023.