買収企業が合理的なら、支払額を抑えがちなはず

 例えば、『世界標準の経営理論』の第5章で紹介する「情報の経済学」の理論に基づく説明がある。M&Aの交渉では、買収企業が被買収企業を「査定」するデューデリジェンスを行う。しかし現実にはデューデリジェンスをしても、被買収企業の本当の価値は簡単にわかるものではない。被買収企業は、自分に不利な情報を隠したがるからだ。

 このように「買収企業が被買収企業の真の価値を読み切れない時は、『高値づかみ』のリスクを避けるために、買収企業が合理的なら、支払額を抑えがちなはず」というのが、「情報の経済学」の理論的な帰結になる。ちなみにこの点を実証分析したのはウィスコンシン大学のラッセル・コフが1999年に『オーガニゼーション・サイエンス』に発表した論文で、仮説を支持する結果が得られている(※3)

買収する側の企業ガバナンスに注目

 第2の説明は、第6章で紹介する「エージェンシー理論」を使って、買収する側の企業のガバナンス(企業統治)に注目するものだ。

 同理論では、経営者は株主と違う動機でM&Aに走る可能性に注目する。例えば、株主側は利益率を重視した企業運営を経営者にしてほしくても、経営者側は「とにかく自社を早く成長させたい」と考えるかもしれない。もしそうなら、経営者はたとえ巨額の買収額が自社の利益を毀損しても、高値での買収に走る恐れがある。

 そして、その企業に大口の「物言う株主」や社外取締役がいなければ、ガバナンスとしてこの経営者の暴走を抑えるのは難しくなる。

自己評価が高い経営者ほどM&Aで高値づかみしがち

 さらに、そもそも経営者には「高値づかみをしやすい心理状況の人」と、そうでない人がいるかもしれない。

 これは心理学的な説明だ。例えば、「自身への評価が高い経営者ほど、M&Aで高値づかみをしがち」な傾向を明らかにしたのは、ペンシルバニア大学のドナルド・ハンブリックらが1997年に『アドミニストレイティブ・サイエンス・クォータリー』(ASQ)に発表した論文である(※4)

 この論文では、米国企業のCEOのデータを使った統計分析から、メディア露出が多かったり、多額の報酬を得ているCEOが率いたりする企業ほど、買収プレミアムを高く払いがちなことを明らかにしている。

経営者が社外取締役からの助言に影響を受ける

 経営者の意思決定は、周囲にいる人たちからも影響を受ける。これは社会学ベースの、「ソーシャルネットワーク理論」の視点だ。

 例えば米国の場合は社外取締役の登用が盛んだから、経営者は自社の社外取締役の助言に影響を受けうる。この点を検証したのが、スタンフォード大学のパメラ・ハウンスチャイルドらが2002年に『ASQ』に発表した論文だ(※5)

 ある企業の取締役会に他企業の取締役が参加することを、ボード・インターロックという。ハウンスチャイルドらは、このボード・インターロックのデータから統計分析を行い、「ボード・インターロック相手の企業群が高値・低値の多様な買収プレミアムを払った経験があるほど、当該企業の経営陣は、その相手企業群(取締役)の経験・言葉からM&Aの厳しさを学び、結果として自社のM&Aで慎重に安いプレミアムを払う」という理論仮説を支持する結果を得ている。

 このように買収プレミアムという現象一つを取っても、少なくとも4つの理論で説明できるのだ。これは、買収プレミアムだけのことではない。ほぼすべてのビジネス現象は、複数の経営理論で説明が可能だ。例えば「企業間提携(アライアンス)」なら、取引費用理論、ネットワーク理論、資源依存理論、組織学習理論、「新規ビジネスの創出」なら、知の探索・知の深化の理論、組織の記憶理論、知識創造理論、ストラクチャル・ホール理論、そして「取締役会のメンバー構成」なら、ネットワーク理論、組織学習理論、RBV、資源依存理論…といった具合だ。

※3 Coff, R. W. 1999. “How Buyers Cope with Uncertainty when Acquiring Firms in Knowledge-Intensive Industries: Caveat Emptor,” Organization Science, Vol.10, pp.144-161.
※4 Hayward, M. L. A. & Hambrick, D. C. 1997. “Explaining the Premiums Paid for Large Acquisitions: Evidence of CEO Hubris,” Administrative Science Quarterly, Vol. 42, pp. 103-127.
※5 Beckman, C. M. & Haunschild, P. R. 2002. “Network Learning: The Effects of Partners’ Hetero-geneity of Experience on Corporate Acquisitions,” Administrative Science Quarterly, Vol.47, pp. 92-124.