モラルハザード問題の解消法は、万能ではない

 しかし、このような解消法が常に機能するかというと、そうとも限らない。むしろ近年の研究からは、その一様な導入は難しく、副作用をもたらしかねないという主張も提示されている。以下、主要な論点をかいつまんで説明する。

従業員のモニタリング・コスト

 従業員・部下の行動を逐一チェックするのはコストも時間もかかるので、なかなか完全なモニタリングは導入できない。例えば、先のように銀行では検査部門による支店への抜き打ち検査が行われるが、なぜ「抜き打ち」なのかといえば、すべての金融取引に検査を行うとコストがあまりにも膨大になるからだ。結果として限定された回数による、不完全なモニタリング(検査)しかできない。

大株主モニタリングの限界

 ファイナンス分野でよく指摘されるのが、小規模株主によるフリーライダー(ただ乗り)問題だ。大株主が経営者の行動をモニタリングする一方で、個人投資家など小規模株主にはそのようなことができない。しかしこれは逆に言えば、大株主がコストをかけて実施するモニタリング行為に小規模株主が「ただ乗り」し、前者から後者へ利益が移転していると解釈できる。そして大株主がその問題を重視すれば、自身がモニタリングをするインセンティブが弱まる可能性がある。

 一方でその逆に、大株主がその地位を利用して、少数株主から利益を奪う場合もある。大株主は多数の議決権を持つし、場合によっては取締役を投資先企業の経営陣に送ることもできるからだ。結果として大株主が自社だけに有利で、少数株主の利益をむしろ損なうような行動をとる可能性もある(※3)

機能しない社外取締役モニタリング

 社外取締役の問題は、そもそもその社外取締役が経営者の知り合い・身内から選ばれる可能性だ。特に日本では経営者が取締役会の議長を兼任する場合が多く、経営者に「甘い」社外取締役が選ばれやすい。例えば2012年に発覚したオリンパスの粉飾決算問題では、粉飾決算に関連する買収を決定した時点で同社に3人の社外取締役がいたにもかかわらず、買収決定の抑制に有効に機能しなかったといわれている。

業績連動型のインセンティブ報酬の難しさ①

 従業員管理のための業績連動型の報酬は、営業成績のような数値化できる業績指標を持っていない従業員(例:財務部、法務部、総務部の社員)には適用しにくい。さらに言えば、営業担当の社員も営業成績だけで企業に貢献しているわけではない。彼らは顧客との対話を通じて情報収集をするなどマーケティング的な機能も果たしているし、顧客からのクレーム処理機能も持っている。業績連動制がこのような数字に表れない成果を取り込めないなら、その仕組みは機能しにくい(学術的には「マルチタスク問題」という)(※4)

業績連動型のインセンティブ報酬の難しさ②

 一般に、企業の従業員は報酬の大きな変動を好まない。従業員にはそれぞれ生活があって、食費、住宅ローン、教育費など毎月ほぼ一定して払わなければならない支出があるからだ。報酬に対して、リスク回避的なのである。さらに、業績が本人の努力に完全比例しないことも問題だ。営業成績は景気に影響を受けるし、そもそも会社が出す製品・サービスに魅力がなければ、いくら営業ががんばっても売れるものではない。

 このように自身の責任ではない理由で営業成績が不安定化する場合は、リスクを避けたがる従業員への業績連動型報酬は機能しにくい。カナダのグエルフ大学、ブラム・キャズビーらが2007年に『アカデミー・オブ・マネジメント・ジャーナル』(AMJ)に発表した論文では、115人を使った実証研究から、実績連動型のインセンティブを与えられた人ほど全般的に作業生産性が高まるが、しかしこの関係は、人がリスク回避的なほど逆作用することを明らかにしている(※5)

ストックオプションによるインセンティブの副作用

 経営者へのストックオプション付与には、「経営者が粉飾決算をするインセンティブが高まる」という副作用がある。モラルハザード問題を解消するために取り入れたはずの仕組みが、逆にモラルハザード問題を助長するのだ。

 特にこの問題は、企業の実際の株価が「オプション権を行使できる基準株価」を下回っている時に起きやすい。株価がその基準を超えない限り経営者はオプション権を行使できないから、何とかして株価を高めたいために粉飾に走るのである。メリーランド大学のケン・スミスらが2008年にAMJに発表した論文では、1996年から2001年の米国225企業のデータを使った統計分析から、この主張を支持する結果を得ている(※6)

 このように企業組織の抱える問題は複雑で、モラルハザード解消の施策を検討する際には、その難しさや副作用も慎重に考慮する必要がある。しかし逆に言えば、問題が複雑だからこそ、まずその「思考の軸」としてエージェンシー理論を理解しておくことが、ビジネスパーソンには重要なのだ。

 部下の監督問題、リスクの取れない経営者、過剰投資、企業スキャンダルなど、企業組織のあらゆる問題の根底には、プリンシパル=エージェント関係とモラルハザードがある。したがって、ビジネスパーソンが組織の問題に直面したら、「誰がこの問題のプリンシパルで、誰がエージェントなのか」「何が目的の不一致になっているのか」「情報の非対称性の原因は何か」「目的の不一致を解消するインセンティブの仕組みはないか」などを考えることが、有効な思考の出発点になるはずだ。

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エージェンシー理論
ガバナンスのあり方に正解はない
よいガバナンスには「お飾りではない」社外取締役が必須

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※1 『日本経済新聞』2019年5月11日。また、「上場企業は社外取締役を2人以上選任すべき」という趣旨のコーポレートガバナンス・コードは、2015年から政府により適用された。なお、2019年には上場企業などに社外取締役の設置を義務づける会社法改正案が閣議で決定された。

※2 東京証券取引所『コーポレートガバナンス白書2019』

※3 ファイナンス分野で大量に研究が行われている。代表的な論文に La Porta, R. et al., 1998. “Law and Finance,” Journal of Political Economy, Vol.106, pp.1113-1155. がある。なお、この点については第35章で、親子上場の問題を引き合いに出して別途議論しているので、関心のある方はそちらもお読みいただきたい。

※4 詳しくは、注3で紹介した大湾(2017)などを参照。

※5 Cadsby, C. B. et al., 2007. “Sorting and Incentive Effects of Pay-for-Performance: An Experimental Investigation,” Academy of Management Journal, Vol.50, pp.387-405.

※6 Smith, K. G. et al., 2008. “CEOs on the Edge: Earnings Manipulation and Stock-Based Incentive Misalignment,” Academy of Management Journal, Vol.51, pp.241-258.