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「効率化」の落とし穴
母の愛にケチをつけるのが難しいのと同じように、効率化に反対することは難しい。物事の効率を改善すれば、同じ苦労や同じ負担で得られるものの価値を増やすことができるからだ。
「本当はノーベル賞ではない経済学賞」(「ノーベル経済学賞」はノーベル財団ではなく、スウェーデン国立銀行のエコノミストたちがエコノミストに授与するために創設した賞だ)の受賞者の一人であるハーバート・サイモンによれば、効率はきわめて有用で完全に価値中立的な概念だ。目的が何であれ、効率を高めれば最小のコストで目的を達成できる。効率を高めることに反対できる人など、どこにいるだろう。ここに一人いる。それは私だ。
次の2つの例において、「効率的」とは具体的に何を意味するか考えてみてほしい。あなたの頭にまず浮かぶ言葉はなんだろう。
まず、効率的なレストラン。この場合、料理が提供される速さのことだと思った人が多いだろう。料理の味を思い浮かべる人はおそらく少ない。それはなぜか。
次は、効率的な住宅。最も多くの人が連想するのは、エネルギー効率だろう。でも、家を購入するとき、デザインや交通の便、近所の学校の評判ではなく、エネルギー効率を基準に家を選んだ人がいるだろうか。
私たちは、どうしてこのような発想をするのか。考えてみれば、これは当たり前の反応だ。人は「効率」という言葉を聞くと、無意識に最も数値計測しやすいものに目が向く。料理が提供される速さやエネルギー効率はその典型だ。多くの場合、効率とは「計測できる効率」のことなのである。効率という概念は、サイモンの言う「価値中立的」なものとはとうてい言えない。計測しやすいものを偏重しているからだ。この傾向は、以下の3つの問題を生む。
●コストは便益より数値計測しやすいことが多いため、効率の追求は単なる倹約の推進になってしまう場合が多い。
計測しにくい便益(ベネフィット)を犠牲にして、計測しやすいコストを減らすことばかりが追求されがちになる。多くの国の政府が医療費や教育費を削減し、その結果として医療や教育の質が低下しているのは、そのわかりやすい例だ(子どもたちが教室で何を学んでいるかを数値で示せる人は、どこにもいないだろう)。政府だけではない。企業のCEOの中にも、目先のボーナスが増えるという理由で研究予算やメンテナンス予算を削り、あとで困った状況に陥る人がいる。あらゆる手段でオーケストラの効率を高めようとする学生も、その同類だ。
●経済的コストは社会的コストより計測しやすいため、効率の追求は経済的コストの削減に向かいやすく、それがしばしば社会的コストを増大させる。
工場や学校の経済的効率を高めることはできたとしても、その代償として空気が汚染されたり、子どもたちの学習に悪影響が生じたりする場合が多い。経済学者たちは、このような問題を「外部性」という言葉で片づけてしまう。
●経済的便益は社会的便益より計測しやすいため、効率の追求は経済的な正当性が偏重される状況を生み出し、それが社会的に不当な状況をもたらすことが多い。
効率を優先させると、質の高い料理よりファストフード(あるいは本書の冒頭で紹介した機内食のスクランブルエッグ)を選びがちになるのと同じことだ。
効率重視の発想、そして効率改善の専門家には用心深く接するべきだ。効率的な教育、効率的な医療、効率的な音楽には、特に警戒したほうがよい。ときには、工場の効率を追求することにも注意が必要だ。
財務以外の指標も重視する業績評価システムである「バランス・スコアカード」も油断できない。財務以外の要素を考慮しようという意図はよいとしても、やはり計測しやすい要素を偏重する傾向があるからだ。