エビデンスと経験

 エビデンス(科学的根拠)と経験について、いまから3つの話をしよう。最初は自転車の話。最後は地球温暖化の話。その間に医療とマネジメントの話を挟む。

 自転車のハンドルに取りつけられている変速機には、数字が表示される。その数字を見れば、現在どのギアで走っているかがわかる。これは一つのエビデンスだ。一方、経験とは、そのギアで自転車を走らせているときに直接、体が感じるものを指す。たとえば、平坦な道でペダルが軽いと感じるのが経験だ。要するに、エビデンスは示されるもの、経験は感じるものと言える。

 もっとわかりやすい説明をしよう。自転車で坂道を上り、そのあと同じ道を引き返して元の場所まで下るとすると、上りは下りの4倍は長い。こう言うと、上りも下りも距離は同じなのに、何をおかしなことを言うのかと思う人が多い。しかし、人が経験するのは距離ではない。距離を表す数字は、抽象的なエビデンスにすぎない。経験するのは、あくまでも時間だ。

 以前、医療関係のマネジャーが対象のプログラムであるIMHL(国際医療リーダーシップ修士課程)の参加者(ほとんどが医師)に、エビデンス志向か経験志向かという尺度で、自分の仕事がどのあたりに位置するかを答えてもらったことがある。

 すると、近年これほど「エビデンスに基づく医療」の重要性が強調されているにもかかわらず、参加者たちの回答は、強いエビデンス志向から強い経験志向まで、見事にまちまちだった。その後の教室での議論は、マネジメントと同様、医療でもエビデンスと経験のバランスが大切だという結論に落ち着いた。「エビデンスに基づく医療」という言葉を「エビデンスに導かれた医療」に変更すべきだと述べた参加者もいた。

 実際、医師のトレーニングでは、エビデンスに基づく教室での教育と、経験を通じた臨床現場での学習のバランスを取っている。しかし、旧来のマネジメント教育(つまりビジネススクールのMBAプログラム)は、分析(要するにエビデンス)を偏重し、経験を軽んじている。財務や戦略の講義で重きが置かれるのはエビデンスだ。理論でそれを補強することはおこなわれるが、生きた経験は重視されない。こうした偏りは、受講生が修了後に就く職にも引き継がれる。MBA取得者の多くは、ビジネスの中核である営業や生産よりも、コンサルティングや財務、マーケティング、プランニングなどの職に就く。その結果、直接の経験を積むことなく、ますます分析とデータの検討にのめり込んでいくことになる。

 この点では、ケーススタディを使った授業も大差ない。教室に実際の経験を取り込むという触れ込みだが、ケーススタディで扱われる題材と実際の経験の間には5つくらいの壁がある。ある企業で実際に起きた出来事がCEOによって語られ(前述したように、ハーバード・ビジネス・スクールのケーススタディ教材の大半はCEOに焦点を当てている)、それがビジネススクールの研究アシスタントによって記録され、それが教授の手で教材の形に書き上げられる。そして、その教材を使って、ほかの教授たちが授業で教える。しかし、その教授たちは、受講生と同様、教材に書かれていること以外はその会社のことをまったく知らない場合もある。

 こうしてビジネススクールは、経験から学ぶことよりエビデンスを分析することを心地よく感じる人たちを世に送り出している。その人たちがマネジャーの座に就くと、たいていビジネススクールで教わったとおりに仕事をする。経験よりエビデンスを偏重し、数字に基づいてマネジメントをおこない、テクニックに頼る傾向があるのだ(この指摘のエビデンスは、あとで示す)。

 この点に関連して言及せずにいられないのが、地球温暖化をめぐる状況だ。地球が温暖化していることを示すエビデンスは揺るぎない。それなのに、なぜもっと本格的な対策が講じられないのか。既得権うんぬんを別にすれば、大きな原因は私たち一人ひとりの態度にあるのかもしれない。私たちは気候変動に関して多くのことを聞かされているが、気候変動の影響を実際に経験することは少ない。つまり、エビデンスは知っているが、経験が不足しているのだ。

 私たちは、「氷山が溶けているとは恐ろしい話だ……誰かが対策を講じる必要がある」とつぶやき、次の瞬間には暖房の温度を上げる。セーターを重ね着しようとはしない。しかし、地球温暖化による海面上昇で家が水浸しになる経験をした人に聞けば、まったく違う反応が返ってくるだろう。こと地球温暖化に関しては、その結末を実際に経験せずに済むように、エビデンスを信じて対策を実行したほうがよさそうだ。

 南アフリカのダーバンで発行されている新聞デイリー・ニューズ(1982年6月16日付)に載っていた言葉を紹介して、エビデンスとのつき合い方に関するストーリーを締めくくろう。「家を出る前に天気の長期予報を調べましょう。短期の天気予報はまったくと言っていいくらい当てにならないので」

『これからのマネジャーが大切にすべきこと』

[著者] ヘンリー・ミンツバーグ
[訳者] 池村千秋
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