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リーダーにはナラティブを構築する能力が求められている
社会を動かしているものは何だろうか。別の言い方をすれば、何が人々の意思決定を左右し、集団の総意を形づくっているのだろうか。現代社会では、「客観的」なデータや数値が重視される傾向がある。たしかに、意思決定において客観的なデータは欠かせない。しかし、人を動かすものはデータだけではない。社会の現実が人々の言葉によって意味づけられる側面は軽視できないだろう。人は、物事がどのように語られているか、つまり「ナラティブ」(物語り)に大きな影響を受ける存在なのだ。
一橋大学名誉教授の野中郁次郎は、ナラティブは「人の主観に訴え、行動へと駆り立てる」ものだと語る。従業員が目的意識を持ち、最高のパフォーマンスを発揮できる組織をつくるためには、会社がなぜ存在し、どのように社会に貢献しているのかという存在意義を示さなければならない。「経営戦略の実行では、科学的手法も必要ですが、最初に『何のために』という生き方やロマンがないと、元気が出てこない」と野中は言う。
欧州の経営学・経営史では、ナラティブの重要性が長らく認められ、研究されてきた。ナラティブとは、ある語り手が紡ぎ出す、一貫性のある筋書き(plot)である。それは、混沌とした現実を秩序立て、因果関係を割り当てて、意味を構築する道具である。
ビジネスに関するナラティブの語り手は、物書きを職業とする人々だけではない。さまざまな役割を持つ人々が、ナラティブを語ることで現在や過去に秩序を与え、意味を理解している。その中でも経営者のナラティブは、ステークホルダーの選択、行動、そして結果を、現在・未来に向けて戦略的に形づくる経営行動として、研究が進んでいる※1。
一橋大学で経営史・経営学(経営組織論)を専門とする筆者は、経営者が有効なナラティブを構築する重要な手掛かりは、企業の過去にあると考えている。
その背景にあるのは、過去の使用(uses of the past)や修辞史(rhetorical history)と呼ばれる研究領域である。この領域において企業の歴史は、アクター(主に経営者)によって戦略的に構築された一種の経営資源だとされる。そして語られた歴史は、ステークホルダーに受容されることで、組織アイデンティティや競争優位の構築といった成果に結びつくと考えられている。
たとえば、元ソニーグループ社長の平井一夫は、社長兼CEOを務めていた当時、歴史を巧みに活用してナラティブを構築し、5000億円を超える赤字を抱えていたソニーの再生を実現した。平井は、ソニー創業者の井深大と盛田昭夫が記した「設立趣意書」に立ち返り、創業の理念を語り直すことで会社の進むべき方向を示したのである。
当時ソニーのテレビ事業は、2004年に赤字に転落して以来、10年連続で赤字を計上し続けていた。そのテレビ事業の方向転換を行ううえで、平井は「規模を追わず、違いを追う」という「設立趣意書」に記載された創業理念を、その根拠として語った。ターゲット層を絞り込み、販売規模を縮小させる戦略転換に対しては反発もあったが、音と映像にこだわり、高付加価値の創出に注力したことで、結果として黒字化を実現したのだ。