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政府の活動に効率化は必要なのか
成功した企業のリーダーが、政府は企業のようになるべきだというのをよく聞く。実際、政界入りして、立派な政治家になる元企業経営者も大勢いる。
だが、ビジネスで培ったスキルや戦略は、行政にストレートに転用できるわけではない。企業経営者から政治家に転身しても、ビジネスの世界では適切な目標や良好な判断の材料となったものが、政治の世界では視野を狭めるおそれがあることを認識しなければ、政治家として失敗しかねない。
たとえば、効率を考えてみよう。ドナルド・トランプ次期米大統領が政府効率化省(DOGE)を新設すると発表したことは、ワシントンで波紋を呼んでいる。無秩序に拡大する連邦政府を整理する必要があるという主張は、多くの国民にとって魅力的に聞こえる。そこには、先の大統領選で、カマラ・ハリス副大統領に投票した人たちも含まれるかもしれない。
だが、私たちは本当に効率的な政府を求めているのか。
効率とは、労働力であれ資本であれ、乏しいインプットから最大限の成果を絞り出すことであり、ビジネスでは重要な概念だ。むしろ資本主義の本質ともいえる。効率を追求しない企業や効率的でない企業は、自由で躍動的な市場でライバルとの競争に敗れる。
だが、政府はそのようなライバルとの競争にさらされておらず、通常は、できるだけ安く、スピーディに機能したりしない。そして、それはよいことかもしれない。
たとえば、警察が暴力犯罪の容疑者を車で追いかけている時、ガソリンを効率的に使ってほしいなどと私たちは思わない。その一方で、裁判所が効率的だからという理由で、その容疑者の基本的人権を踏みにじるような司法を実践することは望まないだろう。また、公立病院の医師が、この暴力犯罪の被害者の緊急手術をすることになった時、効率的だからという理由で、助かる見込みがある被害者を見殺しにすることを、私たちは望まないだろう。また、国防総省は8000億ドル超もの予算をもっと効率的に使える可能性は高いが、そのために敵より先に次世代技術の開発を打ち切ることを、私たちは望まないだろう。
たしかに、行政における効率や安全保障、自由、公正、公平性、平等などの目標の微妙なバランスを決定するのは、その時、政治的権力のトップにある人物であるべきだ。しかし、さまざまな目標のバランスをみごとに取ることは、政府においては「有効性」と呼ぶべきだろう。