マネジメントは、人を交換可能なパーツにしてしまうのか
iStock.com/Dusan Stankovic
サマリー:マネジメントだけを突き詰めると、属人性の排除やマニュアル化に向かいがちだ。そのため、一人ひとりが持つ「人間として扱われたい、個性を尊重してほしい」という根源的な想いと構造的にすれ違う。では、個々人の想いはどこで活かせばよいのか。寓話『北風と太陽』のたとえを使いつつ、悩めるマネジャーとメンターの対話に筆者の解説を加えた、リーダーシップ論を学ぶ連載、第3回。

マネジメントは、個人の想いをすくい上げられないのか

 マネジメントという機能は、複雑なものを制御して、秩序をつくり出していくもの。そのおかげで、現代の経済は成り立っているとも言える。お手頃価格で全国どこでも均一の美味しい牛丼が食べられるのは、マネジメントの賜物だ。組織内のルールもまた、大きな組織が前に進んでいくうえで必要な骨格と言えるのかもしれない。

 ただ、複雑なものを制御する「マネジメントという機能」は、「個人のやる気や想い」といったものと相容れない側面があることにも気づき始めていた。

働く個々人の想いとマネジメントは、どうしてすれ違ってしまうのか

 メンターの問いかけに対し、私が考えた答えはこれだ。

「マネジメント、つまり会社は会社の利益を考え、個々人は自分の利益を考えるからではないですか。会社はできるだけ低い給与で、できるだけ長く働いてほしい。一方の個人は、より高い給与で、なるべく多く休みたい。すれ違うのは当然ではないでしょうか」

 メンターは、ゆっくりと頷いた。

「たしかに、給与や休みといった条件面での齟齬はいつの時代もある。ただ、個々人の想いとマネジメントがすれ違う根本的な理由は、別のところにあるの」

解説:マネジメントだけを突き詰めると、人は交換可能なパーツに陥る

 リーダーシップ論の大家、ジョン・コッター教授はこう言います。「マネジメント・プロセスは、可能な限り、安全に安全を重ね、リスクをゼロにする必要がある。つまり、非常の手段、あるいは確保するのが難しいものに頼ることはできない」[注1]

 牛丼チェーンが、全国各地でいつでも美味しい牛丼を安定的に供給したいと願うなら、「非常の手段に頼る」、たとえば、徹夜しなければ仕込みが終わらない特別丼でも、「確保するのが難しい」、たとえば、天才料理人にしか再現できない絶品丼でも困るわけです。

 つまり、どういうことなのか。コッター教授は続けます。「各種システムや組織構造の全体的な目的は、普通の人々が、普通のやり方で、ルーチンをきちんと処理できるようにすることである[注2]

 誰でもできるものにしていくこと、すなわち、属人性を排除し、マニュアル化していく、という方向になるのです。

 産業革命によって工場や鉄道網が誕生、大量に同じものを生産し、広範囲に提供することが可能となりました。その際、機械を増やすだけでなく、数千人の労働者が一斉に正確に働く必要が生じたのです。そこで求められたのが、多岐にわたる複雑性を制御し、組織という大きなシステムの運営をつつがなく続ける、「手段としてのマネジメント」です。

 そこでは、組織とは狂いなく時を刻む時計のようなものであるべきで、個性的すぎる歯車も、早く回りすぎる歯車も歓迎されない。強すぎる個性は、システム全体の同期を乱す異物にすら見えてくる。そんな構造があるのです。

 その点だけを切り取れば、当然ながら、人間として扱われたい、個性を尊重してほしいと願う、私たち一人ひとりが持つ根源的な想いとすれ違います。

 コッター教授自身、マネジメントのこの飾り気のない性格を、こう言い切っています。「わくわくするようなものでも、華やかなものでもない。しかし、それがマネジメントなのだ」[注3]

 普通の人が、特別な才能やその日の気分に頼らずとも、大きな成果を出し続けられる――マネジメントはそんな魔法を人類にもたらした、偉大な発明と言えるでしょう。私たちが安心して暮らせる社会の土台は、無数のマネジメントが支えているのです。

 ただそれは、働き手のワクワク感や自発性とは別の原理で動いています。マネジャーがその構造を理解せず、マネジメントだけが管理職の仕事とばかりに邁進すると、職場はとても居心地の悪い場所になってしまうかもしれないのです。

 メンバーに活き活きと活躍してもらうこと。職場をワクワクする場所にすること。これらはマネジメントの枠の外で、別の手立てをもって意識的に取り組んでいくべきアジェンダなのです。

* * *

 コッター教授の話に、私はほっとしていた。マネジメントをきちんとしているのに、自分の部署はワクワクしている状態とは言い難い。もしかすると原因は、自分に人を楽しくさせる人間的魅力がないからではないか、という不安があった。しかし、マネジメントはそもそもワクワク感を生む類のものではないと知って、多少心が軽くなったのだ。

 そんな私に、メンターは他の事例を挙げながら、話を続けた。

・ある会社では、上場を境に社員の大量退職が発生した。上場に際して過度な業務負荷がかかったわけではない。引き金は、「数字をつくるため」のマネジメントの強化だった。それまで個々人のやり方に任されていた営業が標準化され、型にはめたスタイルが強いられたのである。こうして、やりがいや面白みを失ったと感じた社員が、一人、また一人と去っていった。

「経営側の気持ちは、わからなくもない。属人的な営業は数字が読みづらいからね」とメンターは言った。「成約が難しそうな顧客は早く諦めろ、収益性の悪い顧客は取るな、一つひとつの顧客にあまり手をかけすぎるな、とかよく聞くでしょう」

「ええ、ビジネスですからね。会社としては、収益や株価、経済的指標をないがしろにできない。マネジメントを強く効かせようとするのはわかります」と私は頷いた。

 とはいえ、個性が尊重されず、会社の命令に従うだけ、部品扱いされるだけの職場だったら、人は辞めてしまう。しかも、できる人からいなくなるというのも、ありがちな話だ。

「いったい、どうすればいいんでしょう」。つい、困惑が声に滲んだ。

マネジメントの枠の外に、人を動かすメカニズムがある。『北風と太陽』で旅人をポカポカ温めてみずからコートを脱ぐよう仕向けたように、メンバーが自分から歩き出すよう仕向ける方法がある。つまり、太陽のようなマネジャーになればいいのよ」

「その方法とは、何ですか」

「ずばり、リーダーシップよ」

 期待が高まっていただけに、私は一気に落胆した。リーダーシップというと、生まれながらのカリスマや人間的魅力を備えた、一部の選ばれし者のための言葉のようで、縁遠く感じたからだ。

「リーダーシップと言われても……。カリスマなんて、そう簡単に身につけられるものじゃないですよ」

 メンターは優しく微笑んだ。「あなたは大きな勘違いをしている。リーダーシップにカリスマは関係ない。だとすれば、リーダーシップって、何だと思う?

【注】
1) John P. Kotter, "What Leaders Really Do," HBR, May-June 1990.(邦訳「[新訳]リーダーシップとマネジメントの違い」『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2011年9月号)
2) 同上
3) 同上

本連載のバックナンバーはこちら