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「安くてよいもの」の呪縛を解く
「よいものを、より安く」。この言葉は、戦後日本の企業経営を支えてきた美徳であり、同時に、いまや日本企業を縛る呪縛になりつつある。本連載で筆者が探求するのは、「正しく、高く、売る」という命題である。これは単なる値上げの勧めでも、中身の伴わないプレミアム化の勧めでもない。自社の商品やサービスが持つ価値を正しく見つめ直し、その価値に見合った対価を、根拠をもって顧客に提示する──そのための思想と方法論を探る試みである。なぜいま、この問いが必要なのか。日本企業を取り巻く3つの地殻変動を確認することから始めたい。
3つの地殻変動──インフレ、人口減少、富裕層市場の出現
第1の地殻変動は、デフレの終焉である。約30年に及んだデフレの時代は終わり、2022年以降、消費者物価は日銀が目標としてきた2%を上回る上昇が常態化した。デフレ下では、価格を下げ、据え置くことが顧客への誠実さとされてきた。しかし、インフレ下でこの方程式は逆回転する。コスト上昇を価格に転嫁できない企業は利益率が圧縮され、賃金を上げられず、人材が流出し、商品やサービスの質が劣化していく。「安く売り続けること」こそが、企業と従業員と、最終的には顧客をも貧しくする悪循環の起点になるのだ。
この転換を象徴する数字がある。日本の上場企業の営業利益率が長らく平均一桁台にとどまる一方、フランスのエルメスは2025年通期で売上高160億ユーロ(約2.9兆円、2026年7月現在)、営業利益率41.0%、粗利益率71.1%を実現している。この差は、品質の良し悪しだけでは説明できないだろう。日本のものづくりの品質は、すでに世界水準にある。差を生んでいるのは、価値を価格に転嫁する「思想と技術」の有無である。
第2の地殻変動は、国内市場の縮小だ。日本の総人口は2008年をピークに減少局面に入り、マーケットの「頭数」は不可逆的に縮小していく。拡大する市場を前提に、リーチとシェアを競う「規模の拡大」のゲームは、もはや成立しない。分母が縮む市場でシェアを追えば、行き着く先は消耗戦である。目指すべきは、顧客の「数」から「関係の深さ」への転換だ。自社の価値を深く理解するファンをつくり、購買頻度と客単価を上げ、顧客生涯価値(LTV)を最大化する。そしてファンをつくるとは、機能や価格ではなく、その企業の存在そのものに共感して選ばれるということ──これはまさにブランドの問題なのである。
第3の地殻変動は、日本における富裕層市場の出現と見える化だ。観光庁の統計によれば、2025年の訪日外国人客数は4268万人、旅行消費額は9兆4559億円と、いずれも過去最高を更新した。消費の中身も「爆買い」から宿泊・飲食などのサービス消費(全体の約7割)へとシフトし、1人当たり旅行支出はドイツ、英国、豪州からの旅行者で39万円を超える。世界基準の富裕層にとって、日本の価格水準はむしろ「安すぎる」と映っているのだ。
しかも、これはインバウンドだけの現象ではない。野村総合研究所の推計では、純金融資産1億円以上を保有する富裕層・超富裕層は2023年時点で合計165.3万世帯と過去最多を更新し、2005年の86.5万世帯から約20年でほぼ倍増、保有する純金融資産の総額は469兆円に達した。持株会やNISAなどの長期投資で資産1億円を超えた一般の会社員──「いつの間にか富裕層」──が富裕層以上の1〜2割を占めるとも推察されており、日本の富裕層市場は、価値あるものに対価を払う用意のある、広く多様な層へと変質しつつある。
以前の日本の富裕層市場は、都市に集中し、あえて見せびらかさないことが美徳とされていた。結果として、富裕層向けの事業というのは隠れていて一般的には見えなかった。一方で、インバウンドという黒船の出現によって、富裕層向けの商品やサービスの見える化が全国で求められるようになった。外国人にとっては、わかりやすくリーチできる商品やサービスでないとそもそも利用できないからだ。この新しく生まれてきた市場に対して、原価に適正マージンを乗せる従来の「コスト積み上げ型」の値付けでは届かない。必要なのは、自社の商品やサービスが持つ固有の価値──歴史、技術、美意識、物語──を、絶対的な価値として自信を持って提示する、ラグジュアリーマーケティングの構えであり、その必要性はいま、東京や京都のような文化資本の蓄積する都市だけでなく、日本の全国津々浦々で求められている。
日本のマーケティング観には、OS更新が必要
3つの地殻変動を踏まえた時、一つの仮説が浮かび上がる。日本におけるマーケティングの支配的な考え方──言わばマーケティングのOS──が、時代の変化に対して更新されていないのではないか。
日本のマーケティング論の主流は、拡大する市場を前提に、機能価値の差別化を競うマスマーケティング論であり、KPIは市場規模と市場シェアである。いまだに多くの企業の経営会議では、シェアと販売数量が最重要KPIとして使われている。
とりわけ深刻なのは、「商品原価が大きく変わらない中で、高い値段を提示していくための方法論」が、日本ではほとんど体系的に知られていないという事実だ。値上げというと、原価上昇分の転嫁交渉か、機能を追加しての実質値上げしか発想できない。だが欧州のラグジュアリー各社は過去10年、製造コストの上昇を上回る価格改定を重ね、インフレをむしろ利益拡大の好機に変えてきた。





