日本企業が「よりよいものを、より安く」から抜け出すために
(写真はイメージです。iStock/SARMDY)
サマリー:「安くてよいもの」という美徳がいま、日本企業を縛る呪縛となっている。インフレ、人口減少、富裕層市場の出現という3つの地殻変動に直面する現代において、必要なのは規模を競う消耗戦を脱し、自社の固有価値に見合った対価を堂々と提示する「正しく、高く、売る」戦略である。本稿では欧州のラグジュアリーマーケティングに学び、哲学や歴史などの無形資産を価格へと転換する企業の条件を提示する。

「安くてよいもの」の呪縛を解く

「よいものを、より安く」。この言葉は、戦後日本の企業経営を支えてきた美徳であり、同時に、いまや日本企業を縛る呪縛になりつつある。本連載で筆者が探求するのは、「正しく、高く、売る」という命題である。これは単なる値上げの勧めでも、中身の伴わないプレミアム化の勧めでもない。自社の商品やサービスが持つ価値を正しく見つめ直し、その価値に見合った対価を、根拠をもって顧客に提示する──そのための思想と方法論を探る試みである。なぜいま、この問いが必要なのか。日本企業を取り巻く3つの地殻変動を確認することから始めたい。

3つの地殻変動──インフレ、人口減少、富裕層市場の出現

 第1の地殻変動は、デフレの終焉である。約30年に及んだデフレの時代は終わり、2022年以降、消費者物価は日銀が目標としてきた2%を上回る上昇が常態化した。デフレ下では、価格を下げ、据え置くことが顧客への誠実さとされてきた。しかし、インフレ下でこの方程式は逆回転する。コスト上昇を価格に転嫁できない企業は利益率が圧縮され、賃金を上げられず、人材が流出し、商品やサービスの質が劣化していく。「安く売り続けること」こそが、企業と従業員と、最終的には顧客をも貧しくする悪循環の起点になるのだ。

 この転換を象徴する数字がある。日本の上場企業の営業利益率が長らく平均一桁台にとどまる一方、フランスのエルメスは2025年通期で売上高160億ユーロ(約2.9兆円、2026年7月現在)、営業利益率41.0%、粗利益率71.1%を実現している。この差は、品質の良し悪しだけでは説明できないだろう。日本のものづくりの品質は、すでに世界水準にある。差を生んでいるのは、価値を価格に転嫁する「思想と技術」の有無である。

 第2の地殻変動は、国内市場の縮小だ。日本の総人口は2008年をピークに減少局面に入り、マーケットの「頭数」は不可逆的に縮小していく。拡大する市場を前提に、リーチとシェアを競う「規模の拡大」のゲームは、もはや成立しない。分母が縮む市場でシェアを追えば、行き着く先は消耗戦である。目指すべきは、顧客の「数」から「関係の深さ」への転換だ。自社の価値を深く理解するファンをつくり、購買頻度と客単価を上げ、顧客生涯価値(LTV)を最大化する。そしてファンをつくるとは、機能や価格ではなく、その企業の存在そのものに共感して選ばれるということ──これはまさにブランドの問題なのである。

 第3の地殻変動は、日本における富裕層市場の出現と見える化だ。観光庁の統計によれば、2025年の訪日外国人客数は4268万人、旅行消費額は9兆4559億円と、いずれも過去最高を更新した。消費の中身も「爆買い」から宿泊・飲食などのサービス消費(全体の約7割)へとシフトし、1人当たり旅行支出はドイツ、英国、豪州からの旅行者で39万円を超える。世界基準の富裕層にとって、日本の価格水準はむしろ「安すぎる」と映っているのだ。

 しかも、これはインバウンドだけの現象ではない。野村総合研究所の推計では、純金融資産1億円以上を保有する富裕層・超富裕層は2023年時点で合計165.3万世帯と過去最多を更新し、2005年の86.5万世帯から約20年でほぼ倍増、保有する純金融資産の総額は469兆円に達した。持株会やNISAなどの長期投資で資産1億円を超えた一般の会社員──「いつの間にか富裕層」──が富裕層以上の1〜2割を占めるとも推察されており、日本の富裕層市場は、価値あるものに対価を払う用意のある、広く多様な層へと変質しつつある。

 以前の日本の富裕層市場は、都市に集中し、あえて見せびらかさないことが美徳とされていた。結果として、富裕層向けの事業というのは隠れていて一般的には見えなかった。一方で、インバウンドという黒船の出現によって、富裕層向けの商品やサービスの見える化が全国で求められるようになった。外国人にとっては、わかりやすくリーチできる商品やサービスでないとそもそも利用できないからだ。この新しく生まれてきた市場に対して、原価に適正マージンを乗せる従来の「コスト積み上げ型」の値付けでは届かない。必要なのは、自社の商品やサービスが持つ固有の価値──歴史、技術、美意識、物語──を、絶対的な価値として自信を持って提示する、ラグジュアリーマーケティングの構えであり、その必要性はいま、東京や京都のような文化資本の蓄積する都市だけでなく、日本の全国津々浦々で求められている。

日本のマーケティング観には、OS更新が必要

 3つの地殻変動を踏まえた時、一つの仮説が浮かび上がる。日本におけるマーケティングの支配的な考え方──言わばマーケティングのOS──が、時代の変化に対して更新されていないのではないか。

 日本のマーケティング論の主流は、拡大する市場を前提に、機能価値の差別化を競うマスマーケティング論であり、KPIは市場規模と市場シェアである。いまだに多くの企業の経営会議では、シェアと販売数量が最重要KPIとして使われている。

 とりわけ深刻なのは、「商品原価が大きく変わらない中で、高い値段を提示していくための方法論」が、日本ではほとんど体系的に知られていないという事実だ。値上げというと、原価上昇分の転嫁交渉か、機能を追加しての実質値上げしか発想できない。だが欧州のラグジュアリー各社は過去10年、製造コストの上昇を上回る価格改定を重ね、インフレをむしろ利益拡大の好機に変えてきた。