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各現場のトップが自律的に動く
編集部(以下色文字):1964年、19歳の時に家業を承継されて60余年、多くの危機──石油ショックやバブル崩壊、リーマンショック、大地震などの天災を経験されてきました。なかでも被害が大きかった東日本大震災が起きた2011年3月11日(金曜日)は、千葉市幕張にいらしたそうですね。
大山(以下略):想像を絶する大きな揺れでした。2~3日前に東北で大きな地震があったことから、直感的にこれは宮城県沖地震ではないかと思い、すぐに本社や工場の現場に戻らなければと思いました。経験上、大きな地震が起こると道路や鉄道は使えなくなります。当時、仙台便が就航していた成田空港に向かいましたが、大渋滞の中、テレビで仙台空港が津波に飲まれる映像を見て、空路もダメだと判断しました。
その時は何よりも「現場を見たい」──それが一番の思いでした。電話も通じませんし、現場を見てトップダウンで指示するというのが危機対応の基本ですから。結局、陸路で向かったものの高速道路に乗る直前に一般車両は規制されて通行できなくなったため、一般道で1日半かけてようやくたどり着いたのが、日曜日(13日)の朝です。大阪や名古屋にいた取締役たちのほうが早く到着していました。
仙台市に戻った時の被害状況はいかがでしたか。
テレビで見た津波の映像とはイメージが異なり、内陸部にある当社周辺は本当に静かで、一見、被害を受けた様子には見えませんでした。ただ、工場内に入ると機械がずれていたり、自動倉庫から荷物が落ちていたり、オフィスでは棚やロッカーが倒れたりと、悲惨な状態でした。近隣の皆さんの自宅でも冷蔵庫や食器棚が倒れたりして足の踏み場がない状態で、余震が怖くて自宅で寝られないということで、避難所に集まっておられました。
そこから組織としての迅速な対応は話題になりました。対応策やその優先順位づけ、担当の割り振りなど、どのように判断して進めたのでしょうか。
私一人で取れる情報は限られるので、社内で使えた一室に幹部で集まって議論しました。PCも携帯電話も使えない中で、自分たちで足を運んで目で見た情報しか伝わらない状況でしたから。
当社はトップダウンが強い会社です。そのトップというのも、社長だった私だけではありません。工場や店舗など各現場のトップであるリーダーたちにも自律的に動くようにと常日頃から言っていて、一定の判断の裁量を持たせて任せています。この時も、工場長が自身の判断で自家発電を手配してくれたおかげで、すぐにPCが動き、携帯の充電もできるようになりました。こうした、我々の指示ではなく現場の判断があったおかげで、迅速な対応ができました。
のちに皆さんから、BCP(事業継続計画)ができていたのかとよく聞かれるのですが、そういうことではありません。火災訓練や消防訓練はしていましたが、BCPは想定内のマニュアルでしかない。この時は、それでは乗り越えられないレベルの震災でした。現場の人間が自分の判断で物事を決める、それもスピーディに決めることが重要でした。一般的な組織では上司や本部に連絡を取ろうとしますが、当社の場合は各部門が自発的に動いてくれたのが非常によかったと思います。
PHOTOGRAPHER AIKO SUZUKI



