構造的な問題がある。解決しければならない。だから新しい制度やシステムを導入しましょう・・・と、こういう成り行きで「構造改革」に取り組む会社は枚挙にいとまがない。

 この10年を無理返ってみても、人的資源管理(「能力主義」や「成果主義」の人事評価や「即戦略重視」で「通年」の採用システム)やコーポレート・ガバナンス(経営と執行の分離、外部取締役の導入、カンパニー制の導入、EVAによる事業評価、報酬委員会や人事委員会の設置などなど)といった領域で「新しい制度」や「先進的なベスト・プラクティス」を導入する必要性が強調されてきた。もっと日常的なものとしては、どうも「部門間のコミュニケーションが悪く」て、本来あるべき「全体最適が損なわれ」て、「部分最適に陥っている」、だから「ここはひとつ組織に横串を指してプロジェクトを立ち上げよう」……。どこの会社でもよくある話だ。

 これがほとんどの場合うまくいかない。なぜかというと、制度やシステムから入ると、すぐに「手段の目的化」になってしまうからだ。「ある望ましい動きや状態を実現したくて、そのための手段として制度やシステムを導入する」というそもそもの因果論理がくずれ、制度を導入しさえすれば望ましい動きや状態を実現できるはずだという甘い考えにすり替わってしまう。あとは絵にかいたような本末転倒の成り行きになる。注意や努力の焦点が、結果として起こるべき動きや成果からそれてしまう。制度やシステムをどのように設計するかといった手段そのものについての詳細や、さまざまあるなかでどの制度がベストなのかという手段の比較検討に多大なエネルギーが投入される。

 もちろん実際には、制度を導入したからといって、すぐに問題が解決されて、望ましい状態が実現されるなどいうことはない。制度やシステムを動かしてみると、次から次へといろいろな問題が出てくる。そこで「制度はいいのだけれども、運用が悪い」という話になる。

「制度は導入してみたものの…」と嘆く会社を観察してみると、本質的な問題のありどころは、次の2つの組み合わせであることが多い。ひとつは、単なる詰めの甘さ。先進的な優良企業が取り入れている「ベスト・プラクティス」だから・・・、と「流行りもの」に飛びつくだけで、本当のところその制度がどのようなメカニズムで、それが作動した結果どのような成り行きをもたらすのか、その辺がきちんと考えられていないことが少なくない。