オフィスに透明性は必要か

 最近の企業経営では「透明性」が問われている。その理由は容易に理解できる。それは職場環境をガラス張りにすれば、従業員はいっそうオープンになって説明責任を果たすようになるという理屈である。問題の特定と解決が容易になれば、情報や優れたアイデアをもっと自由に共有できるようになるというわけだ。

 筆者も数年前にはたしかに、透明性が組織の業績を向上させる実証的な証拠を得ようと研究に着手した。ところが、綿密な実地調査や実験を重ね、企業に派遣した研究者の観察結果を検討するにつれ、事はそう単純ではないと気づいた。筆者の研究結果は、オープンな職場環境に関するさまざまな研究結果[注1]を補完するものであり、透明性が高ければ高いほどよい環境とは限らないと示唆している。業績向上には、他人の目や干渉から自由になれる「プライバシー」も必須なのだ。

 透明性はたしかに無駄な慣行を排除し、協働や学習成果の共有を促進するが、これが行きすぎると事実の歪曲や非生産的な抑圧を招きかねないという矛盾が生じる。思いつきによる実験的な試みが、すっかり影を潜めてしまうおそれもある。職場が広々と見通しのよい空間だったり、膨大なリアルタイム・データで勤務時間中の個々の行動がつまびらかにされたりすれば、従業員は丸裸で無防備な状態に置かれていると感じるだろう。観察されることで、人間の行動は変わる。隠し立てしなければならない悪事に手を染めていなくとも、自分の行動を覆い隠すために手を尽くすようになる。経営幹部が隠し事の匂いを嗅ぎつければ、本能的に従業員の行動をより熱心に監視するようになる。そうなれば事態はいっそう悪化するばかりだ。