「カニを食べている時みたいだ」
テーマは「働くうえで大切にしていること」。それぞれが持つ「仕事に対する思い」を描きます。長谷部さんの「絵を描く時間は40分から1時間ぐらい」という言葉に、参加者が一瞬ひるんだように見えました。それを見越したかのように長谷部さんが続けます。
「そんなに長い時間?と思われたでしょう。でも、集中するとあっという間ですよ」
Kuniさんも重ねて言います。
「40分ぐらい描くと『何かが出てきた』と感じる瞬間があるはず。それまでは、諦めずにがんばってみてください」
場の空気は和んでも、まだ不安を隠せない参加者たち。それでもワークショップは進みます。12色の画用紙から気に入った色を選び、いよいよスタートです。
何も描かれていない紙を前に、熊谷さんとマヨランさんは腕を組んで何やら考え込んでいます。すぐにパステルを握って色を乗せ始めたのは川野さんと高橋さん。こうした反応は、これまでも見られました。でも、押味さんだけは違っていました。
描く作業に入る前に、Kuniさんの作品を鑑賞して感じたことを挙げていくプログラムがあります。押味さんはそのときに使った名刺の半分ほどの大きさの付箋に、頭に浮かんだイメージの設計図を描き始めたのです。押味さんの名刺を見ると工学博士の取得者。自己紹介でも強い意気込みを表明していました。そう考えれば納得です。
やがて全員がパステルを手に、画用紙に色を乗せ始めました。会場には、パステルが画用紙にぶつかる音と、画用紙に乗ったパステルを指でこする摩擦音だけが響きます。
とはいえまだペースがつかめないのか、手を止めては考え込む光景も。しかし川野さんと高橋さんは手を止めません。安定したペースで淡々と「思い」を描いていきます。
描き始めてから10分ほど過ぎたころ、その静けさを破る声が響きました。
「無言になるなあ。カニを食べている時みたいだ」
熊谷さんです。その言葉を聞いて、知らないうちに絵に没頭していたことに気づいた参加者たちは、ふと我に返って苦笑いを浮かべています。ところが、ほんの少しだけ緩んだ空気もすぐに引き締まりました。静寂が戻り、集中度はますます高まったようです。
静かな時間が過ぎるなか、ぼそっとマヨランさんが長谷部さんに尋ねます。
「ほかの会社のときも、こんなに静かなのですか?」
長谷部さんはうなずきます。熊谷さんもそれを感じていたようです。
「そうなんだよなあ。意外と夢中になるものなんだね」
参加者たちの集中度を象徴するのが、描く時間が終わった直後です。5人とも一目散に洗面所に立ったのです。途中で洗面所に立つことを禁じられているわけではありません。忘れていたのか、あるいは描く行為を中断したくなかったのでしょうか。
手を洗いに行っただけかもしれません。ただ、私たちスタッフには、何十年もの間触れてこなかった「鬱憤」を解き放つかのように、絵に没頭していたように見えました。