なぜ、同じ「経営」をテーマとしながらも、経営の実務と学問としての経営戦略の間には、これほどまでに大きな隔たりが存在するのか。本連載では、長く実務の世界に身を置きながら、学問としての経営学を探究し続ける、慶應義塾大学准教授の琴坂将広氏が、実務と学問の橋渡しを目指す。第8回は、まず事業戦略と全社戦略の違いを明らかにし、教科書的な定石を明示する。そのうえで、より実務的な視点から全社戦略を再定義し、実際のビジネスの現場で何が求められるのかを詳細に議論する。
前回はまず、事業戦略の定石と戦略フレームワークについて解説した。そのうえで、事業戦略を検討する際に見逃されがちな「行動」に焦点を当てた考え方を紹介した。
今回は、全社戦略(Corporate Strategy)について議論する。全社戦略は、単一事業における事業拡大や競合との競争を扱う事業戦略(Business Strategy)とは異なり、組織全体の永続に向けた各種の取り組みを扱う。
まず、原点に立ち返ろう。そのためにも第4回で紹介したイゴール・アンゾフの理論から、その基本を理解する。そのうえで、全社戦略に関する議論について、1つひとつ整理していきたい。
全社戦略と事業戦略の違いは何か
事業戦略と全社戦略の境界は曖昧に見える。おそらくその理由は、実際に両者の重なりが大きいからだろう。
図1は、アンゾフの『Corporate Strategy(企業戦略論)』で示された、戦略的意思決定プロセスの概念図である。これはアンゾフ・マトリックスの成長ベクトルを選択する際、アンゾフが最も重要な戦略的意思決定と位置付ける、「多角化を選択するか否か」を検討するフローを表している。
図1:戦略形成のプロセス

出典: Ansoff H. I. 1965. Corporate Strategy. McGraw-Hill, p. 27. より筆者作成
この考え方ではまず、みずからの組織の目的とゴールを設定する。そして、組織の内部と外部の機会を評価する。それらを勘案したうえで、戦略的意思決定(この例では多角化するか否か)を行う。
事業戦略を立案する際も、外部環境と内部環境に対する洞察から意思決定を行う流れまでは同一である。しかし、事業戦略がある産業における自社の競争行動を検討するのに対して、全社戦略とはより組織全体の方向性に影響を与えるものであり、アンゾフの言う「戦略的意思決定」である。
では、「戦略的意思決定」とは何か。第4回でも触れたが、もう一度、アンゾフが整理した戦略的意思決定の4つの要素を確認しよう。それらは極めて根源的であり、現代でもその重要性は変わっていない。
1. 製品と事業分野(自社がどの市場を事業領域とするか)
2. 成長ベクトル(自社の成長のためのアクション)
3. 競争優位(自社の競争優位の源泉をどこに持つか)
4. シナジー(自社の事業領域間の相乗効果)
まず、自社をどう定義するかである。それには、どの事業環境を選択するか(製品と事業分野)であり、いかなる強みを醸成するか(競争優位)という議論が出発点にある。その出発点からある程度の事業展開を進めると、持続的な成長をさらに継続させるために、自社の成長をどう実現するか(成長ベクトル)が俎上に上がる。その後、自社の事業領域が多数並存するまでに成長が継続すれば、それらの事業のあり方を再編成するため、自社の事業領域間の相乗効果(シナジー)を考えることが議論の中核となるだろう。
すなわち、全社戦略が求める戦略的意思決定とは、まず、創業時点における組織目標の形成とゴールの設定、言い換えれば、製品と事業分野と競争優位を定める際に行われる。その後しばらくは、事業戦略を推進するため、全社戦略は補完的な位置付けとなる。しかし、成長を持続するための岐路に差し掛かるときや、事業上の困難に直面し組織の再編が迫られるときには、多角化を含む成長ベクトルの検討や事業間シナジーの評価など、また別の戦略的意思決定が求められることとなる。
伝統的な教科書が教える全社戦略の主題は、アンゾフ以来の伝統として、事業の多角化と、多角化した事業の管理が中核である。これはおそらく巨大企業では日々行われているが、社歴が浅く事業多角化に至っていない企業では馴染みが薄いはずだ。新興企業にとってはそもそも、事業の数が限られているため、 創業時点における事業戦略と全社戦略は大きく重なる。全社戦略が事業戦略とは別のものとして本格的に必要になるのは、ある一定以上の成長を実現した後である。
経営戦略の歴史を思い起こしてもらうと、その意味はわかりやすい。
経営戦略という言葉が普及した背景には、米国を先頭とした戦後世界経済の持続的かつ安定した成長があった。そして、多くの大企業が成長を継続するために事業を多角化し、単一事業の運営を超えて、複数事業の集合体としての企業の方向性を決める必要性に迫られた。さらに、コンサルティング会社やビジネススクールなどの勃興とも合わせて、経営戦略、ここでいう全社戦略の概念が広く普及したのである。すなわち、全社戦略が多角化と多角化事業の運営手法を中核として普及し、現代もそれが中核的な議題として扱われることに不思議はない。
教科書に見る全社戦略の定石
表1に、前回も参照した6冊の経営戦略の教科書が、全社戦略をどのように解説しているかを取りまとめた。
表1:教科書が教える全社戦略

出典:筆者作成
たとえば『戦略経営論』と『経営戦略をつかむ』は、出発点であるアンゾフの議論の潮流を汲み、多角化を中心に議論を進めている。これは最も伝統的な全社戦略の形式に準拠した形式だろう。『戦略経営論』は多角化の各種形態にまで踏み込んでおり、『経営戦略をつかむ』は多角化の経済学的な背景への言及が充実している。
それに対して、『グラント 現代戦略分析』『MBA経営戦略』『経営戦略入門』では、まず、事業ドメインや企業ドメインに関する議論を丁寧に紹介し、それに紐づいた事業の多角化と、多角化した企業体の運営手法を解説する流れとなっている。これは目標とゴールを定め、それに基づいて事業を選択し、その事業群を編成するという、全社戦略の中核的な流れを意識した構成である。
なお、『企業戦略論』は下巻(上・中・下の3構成)である「全社戦略編」に、合併買収や戦略的提携などの関連テーマも合わせて採録している。しかし、その基本となるのはやはり多角化戦略と多角化戦略を推進する組織体制である。資源ベース理論を通した解釈で議論が編成されているが、これも伝統的な全社戦略の議論を踏襲しているといえよう。
全社戦略は、その議論の出発点にアンゾフの時代、すなわち安定的な経済成長が続くなかで、事業の多角化が魅力的な成長戦略として推進された時代がある。その時期の全社戦略とは、多角化をどう意思決定し、どう行うかであった。
その後、停滞する経済状況を反映して、BCGマトリックスのように、事業ポートフォリオ管理によって経営資源をいかに配分するか、すなわち多角化のマネジメントという議論が発展する。そこでは、すでに多角化した企業の資源管理であり、事業管理、そして再編が着目点であった。
1990年代からは、C. K. プラハラッドとゲイリー・ハメルによる『コア・コンピタンス経営』のように、戦略事業単位(Strategic Business Unit)を基軸に事業をポートフォリオとして捉えるのではなく、自社の競争力の源泉たるコア・コンピタンスを重要視する考え方が着目されるよになる(第6回参照)。
これはプラハラッドとハメルの言葉を借りれば、「戦略アーキテクチャー」をどのように設計するかという議論である。より一般的な言葉を使えば、企業ドメインや事業ドメインといった自社の強みの源泉の応用範囲を理解し、それをできるだけ広げ、その競争力を保持するための取り組みを継続する作業であった。
このような背景があるため、経営学の理論的系譜に忠実な教科書であるほど、また基礎的な部分を重視する教科書であるほど、議論は多角化とその運営手法を中心に行われる。また、前述した通り、新興企業や中堅企業の大半にとって、事業多角化の程度は高くはなく、ほとんどの場合は事業戦略を検討する範疇の議論で、必要が満たされてしまう。
結果的に、多くの実務家にとって、全社戦略は感覚的にはわかっていても、 それほど馴染みのない領域となるのである。
全社戦略を再定義する
私は、現在教えられている全社戦略の要素について、仮に理論的な発展の経緯を勘案せずに再定義[注1]するのであれば、図2のようになると考えている。
図2:全社戦略として検討すべき要素

出典:筆者作成
ここで断りを入れたのは、学術的な蓄積を背景とすれば多角化の議論を主体とせざるを得ないからである。たとえば、Google Scholar で多角化戦略(“Diversification Strategy”)と検索すると、3万1900件の論文がヒットする。これはポーターのファイブ・フォース(“Five Forces”)の2万5000件、またBCGマトリックス(“BCG matrix”)の5200件よりも多い。学術的な知見に厳密になろうとするほど、成熟した研究分野である多角化の議論が中核となりがちだ。
ただ、前述した通り、多角化戦略で前提とされるような多数の事業領域を抱える大企業は、全体から考えればごく一部にすぎない。日本でも、一部の巨大電機メーカーや総合商社など、数百の関連会社を抱える事業体であれば、そうした議論が中心であっても納得感があるだろう。しかし、多くても3つか4つの基幹事業領域で勝負する中小中堅企業や新興企業などの大多数の組織にとっては、全社戦略で議論すべき、より重要な側面があると私は考えている。
図2に示した全社戦略の要素は4つからなる。その骨格となるのは、「1. 組織ドメインの定義、周知、更新」である。組織ドメインとは、組織の生存領域、生存目的であり、ビジョン、ミッション、バリューとも呼ばれるものである。これを定義するだけではなく、組織内に周知し、状況変化に応じて絶えず更新していくことが重要となる。
その際に見過ごされがちなのが、「2. 全社機能の戦略検討」であろう。全社の方向性を反映して、それぞれの事業の基盤となりうるインフラを構築していかなければならない。これは各事業の基礎体力を築く重要な取り組みであり、おろそかにしてはならない日常業務である。
そのうえで、伝統的な多角化や水平・垂直統合の議論は、「3. 事業領域の管理・再編」で取り扱われる。第1に、自社の事業をどう拡大していくのか、それを産業・市場における領域の拡大、価値連鎖における領域の拡大、地理的な領域の拡大の3つに切り分けて検討する。事業領域が多彩に広がったのちは、当然その無数の事業領域の管理が必要となり、絶え間ない選択と集中、再編が求められることもある。
近年特に重視されるのは、「4. 監査・評価・企業統治」であろう。企業の影響力が増大し、ときにそれが国家の力を凌ぐようになるなか、組織がみずから管理・監督し、事業を独自に評価し、さらには短期的な自己の利益だけではなく、社会厚生を加味した意思決定が行えるように組織整備を行うことが必要となる。これは組織の骨格となる判断基準であり、独立して議論すべき重要事項である。
以下、これらの4つの要素を1つひとつ概観したい。