当たり前のことを驚きをもって眺める
――人文科学がビジネスに役立つのではないか、という想いで会社を始められたということですね。その概念をどのように実装されていったのでしょうか。
私は実践的なことが好きなのです。もし何かについて考えたら、それを実際にやってみたい。だから、人文科学というものを、何かを実際につくったり変えたりすることにつなげていきたいと思いました。誰も読まない論文を書くだけの教授にはなりたくなかった。何か書いたならそれが使われるほうがいい。
私はビジネスの世界が好きです。もしやり方が下手だったらそれが結果として出る。間違っていたら市場で失敗し、そこから学ぶことができる。そういうダイナミズムが好きなのです。私はビジネスのこうした明快さは美しいものだと思っています。実際に成功していないと生き残ることができない。一方、政治の世界だとそうはいかないですよね。政治では実際と表面上の成功が食い違う。
では、どうやったのか……。わかりません(笑)。直感に従っただけです。
――具体的にはどのような方法やアプローチをビジネスの世界に持って来られたのでしょうか。
文化人類学には、エスノグラフィーという観察を核においた情報収集の方法があります。人々のところに出かけ、彼らがどのように生きるかを観察する。人に質問をするインタビューではなく、何が起こっているのかを見て注意を払う。そして写真を撮り、録画をし、見たものや経験したことについて細々としたノートを書く。
この方法は非常にパワフルです。なぜなら、人々自身が気づかない経験を書き留めることができるから。なぜ私たちは今のような服装をしているのか。なぜ私たちは今食べているものを食べているのか。こういった当たり前のことは自分でもわからないのでインタビューしても聞けません。エスノグラフィーは当たり前のことを何か魔法のようなものだと捉える方法です。つまり当たり前のことを驚き(ワンダー)を持って眺め、なぜそうなのかを理解しようとする。
このところエスノグラフィーはビジネスでもよく使われています。でもそのエスノグラフィーはとても軽いタッチ、短期間で行われています。多くは、誰かの家に2時間滞在しその家の人に質問するといったもの。これはインタビューであってエスノグラフィーではありません。私たちがやっているのは、文化人類学者がフィールドで行っているようなエスノグラフィーです。人々の警戒心がとれて、本当の生活、本当の気持ち、生活の過程が見えてくるまでに少なくとも3週間、時には6ヶ月かかります。もちろんこれにはお金もかかりますが。
例えば、私たちはサムソンと携帯電話について仕事をしてもう12年が経ちます。一つのプロジェクトは6ヶ月から1年ぐらいですが、すぐに同じテーマの別のプロジェクトが始まるので、ずっと続いている。12年の間に30の国に行き、家族の携帯電話とのつきあい方がどう変化しているかを調べています。フォードとはモビリティーについて7年間仕事をしています。学問の分野で行われているエスノグラフィーより本格的といってもいいかもしれません。
ものすごい労力がかかります。そして私たちは常に経営トップと仕事をします。彼らであればお金を出せるのと、私たちは「人はなぜ動くのか」などの本質的で大きな課題を扱うからです。
――エスノグラフィーがビジネスに役立つ例を教えていただけますか。
自動運転の中核に「レーン・アシスト」という技術があります。道路の白線を察知してそこに近づいたら車を戻すという技術です。これは米国ミシガン州に住んでいるなら意味があります。よい道路がありますので。でもインドで車を売りたいなら、そこの道路には白線がなかったり、あったとしても誰も気にせず線を踏みまくったり、そこら中に鶏が歩いていたりする。そこには異なる人々の経験があるのです。米国や日本の経験をもとに、技術をブラジル、中国、インドなどに持って行こうとするのは間違っています。
技術はその地域の習慣、文化、経験に合わせる必要があります。そして異なる地域、異なる年代の人々を理解するためには、エスノグラフィーは非常に役立ちますし、それは当然な話です。でも、現実には、シリコンバレーで開発されるほとんどのソフトウェアは、同じようなことを考え同じ場所で訓練され同じような経験を持った同じぐらいの年代の人たちによって作られています。
車だって、ある特定の興味や経験を持った機械エンジニア、それも男性によって作られている。でもソフトウェアは世界中で使われるし、車を使っている多くの人はエンジニアでもなければ男性でもない。エスノグラフィーのような考え方があれば、人々の経験を踏まえて商品をデザインできる。エスノグラフィーはビジネスに役立ちます。
――クライアントの会社の人たちを訓練して、彼ら自身がセンスメイキングをできるようにすることもあるのですか。
私たちと長年一緒に働いている企業の人たちは、自然と学んで自分たちでセンスメイキングをするようになりますが、でもほとんどは私たちがやっています。
車を作りたいなら機械エンジニアであったほうがいい。それと同じでエスノグラフィーや何らかのセンスメイキングをするなら、その種の人文科学の経験があったほうがよいのです。つまり企業には、人文科学のトレーニングを受けた人を雇うニーズがあり、実際に多くの企業がそうした人を採用しています。Facebookが最近800人程の社会心理学者と文化人類学者等を採用し、私たちに彼らが力を発揮して働けるような仕組みを作ってほしいと依頼してきた、こういうケースもあります。仕事のプロセス、仕組み、そして彼らの知見をビジネスへとつなげる力がないままに、ただ200人の文化人類学者とか50人の哲学者とかを雇ったら、大混乱になるだけですので。