アダム・スミスと渋沢栄一の道徳論

 その論文で冨山和彦氏は、経営層の不正防止の具体策として、取締役会がきちんと機能することを提唱しています。

 実は先日、世界的な経営人材コンサルティング会社、エゴンゼンダーのシニアアドバイザーにインタビューしたところ、同様の意見でした(記事「社長をどのように決めるべきか」はDHBR.netで10月29日掲載)。ただ意外にも、平均的には日本のほうが米国よりも、企業の後継者育成計画では成功している、と言います。理論に合った制度を構築するだけではダメで、運用する「人(取締役)」の質が問われるということです。米国における、制度の硬直性を指摘しています。

 冨山氏の論文では、不正の根源的要因として、「人間の本性として、欲望に対する弱さ」を挙げます。ただし、「その欲望が動機付けとなって、市場経済が成立している」と論じます。それを「制御」する制度として、取締役会があるのです。

 この「欲望と制御」に関連して冨山氏は、英国の経済学者であるアダム・スミスの『道徳感情論』と、「日本の資本主義の父」と称される実業家である渋沢栄一の『論語と算盤』を紹介しています。スミスの『国富論』も挙げていますが、欲望と制御の関係性については『道徳感情論』がより重要です。同書は大著なので、ご興味のある方は、『アダム・スミス』(堂目卓生著、中公新書)を読まれることをお勧めします。スミスと渋沢の主張には主に次の点で、共通項があると私は考えます。

第1に、人は、富を得ようとする「野心」があり、これは否定されるべきものではない。

第2に、各人が野心に基づき行動すると、競争が生まれるのが必然である。ただし、公正な競争でなければならない。

第3に、個々の野心の発揮の結果、社会全体が豊かになる。スミスは、富裕層が虚栄心から奢侈品を求め、それを通じて富が社会に分配されるとしますが、そのプロセスをすでに『道徳感情論』で、「見えざる手」という言葉で表現しています。

 ただし、野心の発揮が行き過ぎると、破綻するので、それを制御するために「道徳」が必要になる。道徳では制御できない場合は法律を作ることになる。しかし、道徳に比べて、法律による制御は、社会全体を窮屈にするので、道徳のほうが望ましい。渋沢は、力による規制としての覇道ではなく、徳をもって制御する王道が望ましい、と表現しています。

 スミスの道徳論の価値については、多くの識者が認めています。1999年にノーベル経済学賞を受賞したロバート・マンデル(コロンビア大学教授)もその一人で、著書Man and Economics(1968年、邦訳『マンデルの経済学入門』、竹村健一訳)では、法への依存度が高いのは歴史が浅く伝統のない国である、と論じます。

 法に違反しなければ罰せられないので、法に抵触しない限りのあこぎなまねをする人々が出てきます。歴史がある国では、法制化しなくても、例えば共有地などの扱いについて、国民が一線を越えることなく自制するというわけです。国がオープンになるほど、人々が多様化して、ルールの明文化や標準化が求められることになります。グローバル化は、その極みです。

 マンデルは同書の最終章で、世界政府の必要性を書いています。今日この考えが問われているのが、地球環境についてです。パリ協定として各国が守るべき一線を決めましたが、制限されなかったことは何をしても良いとなりがちです。ルールは必要ですが、限界があり、結局問われるのは道徳心。対象が地球か企業か、という規模の違いだけで、前述した取締役会のように、制度には効果と限界があります。

 グローバル社会で、道徳心を高めるには、どうしたらいいのでしょうか。スウェーデン人の環境保護活動家のグレタ・トゥーンベリさんのような活動が続き、社会が変わっていくことを願わざるをえません。

 最後に、お知らせです。2014~2018年、足掛け4年間、DHBR本誌で連載していた早稲田ビジネススクール教授の入山章栄氏の『世界標準の経営理論』が、加筆・修正されて1冊の書籍として、来月12月の上旬に、ダイヤモンド社から発行されます。

 詳細については、来月またこの場でも書かせて頂きますが、「経営学の基盤となる、経済学・心理学・社会学のディシプリンを網羅する経営理論の完全体系」の書籍です。どうぞ、ご期待ください(編集長・大坪亮)