老舗の中小メーカーが経験した成長と衰退

 写真現像機の製造販売を行うノーリツプレシジョンは、1951年に写真館として設立された。以前はノーリツ鋼機という和歌山を代表するメーカー(給湯器で有名なノーリツとの関係はない)で、1時間でフィルムから写真を現像する装置(ミニラボ)を1976年に上市すると、これが国内外で爆発的に売れて、急成長を遂げた会社である。その後、売上げ900億円超、東証一部上場も果たし、1990年代には「和歌山の奇跡」と呼ばれた。

 しかし、2000年代にデジタルカメラが普及し始めると、いっきに風向きが変わることとなる。

 デジタルカメラの最大の特徴は、PC画面などのモニターで写真を見ることができる点にある。それまでのフィルム写真のように、「撮影した写真はとりあえずすべて現像する」という消費者の行動が、「気に入った写真だけ厳選して現像する」という行動に変わった。シャッターを切る回数はけた違いに増えたが、必要最低限の写真しか現像しないため、当社の主力商品である写真現像機の稼働が急激に落ちた。それが日本だけでなく、世界中で同時に起きたのだ。

 写真フィルム市場の消滅は、いわゆる「イノベーションのジレンマ」の例として取り上げられることも多い。破壊的イノベーション(デジタルカメラ)によって、持続的イノベーション(フィルムカメラ)が淘汰された象徴である。写真用フィルムの世界需要は、2001年からの10年間で99%消滅したが、一世を風靡した技術がこれだけの速度で消滅した事例は、後にも先にもないと言われている。

 写真を現像する機械を製造販売していた当社は、この市場の大変化の波を直接受けてしまい、瞬く間に窮地に立たされた。売上げは急速な右肩下がりを続け、新規事業も本業の落ち込みを補完するスピードでは立ち上がらず、2003年以降の10年間で売上げは約10分の1まで減少した。

 ただ、ビジネスとしては低調が続いていたものの、技術力自体は高く評価されていた。そこに成長余地を見出した投資会社が株主となり、2016年から新たな挑戦を始めることになる。筆者に声がかかったのは、そのタイミングであった。

 筆者が社長就任後に最優先に進めたのが、企業戦略の策定である。当社の祖業であり、売上げと利益の大半を占める写真現像機事業が急激に縮小する中、今後の成長を見据えた戦略が必要とされた。写真現像機事業の縮小を抑えることは容易ではなく、新規事業を創出して多角化することが絶対的に求められていた。

 ただし、あらゆるリソースが限られる状況の中で、多角化を遂行するのは容易ではない。また、再建が急がれたのでスピードも重要だ。そうなると当然のことながら、「自社単独ですべてを手掛けることは不可能」という事実を突きつけられることとなり、「積極的に社外連携を活用する」という発想に帰結した。つまり、オープン・イノベーションのフル活用である。

 より具体的には、「多角化と連携」を中長期的な企業戦略として策定した。前述の通り、当社は写真現像機の一本足打法による急成長を果たし、その後に苦しい思いをしてきたので、特定製品に集中依存のリスクは理解されていた。そのため、「多角化」の必要性は比較的スムーズに納得してもらえた。

 一方で、「連携」については、当時の社員がすんなりと理解できる話ではなかった。写真現像機という限定的な市場でグローバルな成功を収めた当社では、自前主義が強みの源泉だと考えられていた。開発、製造、販売、サービスのすべてを自社で行い、なかでも自社の根幹に関わる開発や製造のエリアに他社を活用することへの心理的抵抗は、けっして小さくなかった。

 また、他社との連携はすぐに成果が上がるものではない。特に資金面の余裕が乏しい中小企業の場合、短期の業績に直結しない活動は広がりにくいが、長期の視点を捨ててしまうと持続的な成長を実現できず、連携を捨てるという選択肢を取るべきではないと考えていた。そこで前職の経験を踏まえながら、最善の注意を払い、オープン・イノベーションを進めることを決めた。