森・濱田松本法律事務所の事例
森・濱田松本法律事務所は、海外に10拠点を持ち、登録弁護士で759人(2024年3月時点)を有する国内有数のプロフェッショナルファームです。同所には3大理念として「日本最善の法律事務所」「若い才能が成長していく場」「公共的使命をもって社会に貢献する」があります。
しかしながら近年は、創業メンバーの死去や初期メンバーの高齢化、また大幅な人材採用の増加で、「組織のDNAの伝承が今後ますます難しくなっていく」という危機感がありました。会社として新しいステージを迎えているものの、組織として失ってはならない考えや文化を拾い上げ、言語化し、定着させていくことに課題感を抱いていたのです。
2022年、同所はBIOTOPEとともに「ブランドアーカイブブック編纂プロジェクト」を開始しました。創業時を知るメンバーを中心にインタビューを重ね、個々の体験を記録するとともに、1949年の前身母体の開所からの歴史や、それまで扱ってきた事件などを整理して約180頁に及ぶ「物語」を冊子にまとめました。
ここには組織文化への考察が含まれています。インタビューの端々に登場する言葉から、組織を表すものを抽出して、年代とともにまとめたのです。たとえば、個人のオーナーシップ、衆知を集める(合議)、自由闊達、組織の多様性がそうです。組織に根づく"息遣い"を時代とともに表現しようとしました。
筆者自身、この冊子を読んで気づいたのが「若手の成長を支援するプラットフォーム」としての価値を存分に伝えていることです。創業時から「1年目も30年目も同じ」という考えがあり、実際にその様子がわかります。また、「合議」という考えを重んじており、ベテランの知見を若手へと積極的に移転する物語がさまざまなインタビューを通じて語られています。
プロジェクトを主導した、マネージング・パートナーの石綿学弁護士は「3大理念の一つである『若い才能が成長していく場』は、他と比べても、我々らしい考えかもしれません。我々は、若い才能だけでなく、ここに集まる才能が自己実現していける。そうしたプラットフォームとして組織を維持していくことに、最も高い価値を置いている組織だからです」と話します。
しかも、この冊子は採用活動にも活かされています。企業でいう新卒にあたる弁護士がリクルーターとして次の若手採用に関わる文化があり、後輩に対して、自分の所属する組織がどういう組織かを伝えるツールにもなっているのです。もちろん、採用の場面だけでなく、顧客開拓、ブランディングなど、会社の次の成長に向けて活かしているそうです。
つまり、社史編纂をいち部門の仕事ではなく、経営全体における差別化戦略、ブランディング戦略としてとらえているのです。ここが一般的な社史編纂事業との大きな違いです。
さらに石綿弁護士は「組織文化については、まだ結論が出たわけではありませんし、プロジェクトもこれで終わりではありません。考え続けていく過程に意義があるのです」と強調します。
今回のプロジェクトは、メンバーそれぞれに当事者意識を持ってもらい、納得感を得てもらうため、多様なメンバーに参加して考えてもらうプロセスを重視してきたそうです。プロフェッショナルファームという特性上、上意下達のマネジメントが馴染まないところもあり、一人の物語を「正史」として押し付けるのではなく、数多くの物語を束ねて、そこから帰納的に組織文化を探っていくアプローチを取りました。
しかも、このプロジェクト自体が未完の状態ということですから、単なる懐古主義に陥らずに、これからの人材にとって歴史から現在、未来を見つめるうえでのツールとして役立っていくことでしょう。
このように歴史と組織文化を紐づけて、組織が物語をつくっていくプロセスが、特に企業ステージの転換点を迎えた組織において効果的であるとうかがえます。それでは、歴史を活用するうえでどのような点を意識したらよいのでしょうか。
史実をもとに対話を続ける
言うまでもなく歴史を活用するには、点在した記憶や資料を史実としてまとめる必要があります。酒井准教授によると、欧米企業には会社の歴史を専門に扱う「アーキビスト」と呼ばれる存在が日本よりも一般的だそうです。
たとえば、ウォルト・ディズニーがその一つです。ディズニーアーカイブス館長だったデイブ・スミスは、司書の経歴を持ち、1970年代からディスニーの文献や物品などを収集、保管してきました。晩年もチーフ・アーキビストとして活躍し、ファンにも親しまれた存在でした。
人を雇う余裕がないという企業にもやり方はあります。佐宗さんは、ワークショップで3つの年表をまとめるそうです。個人、会社、社会という3軸でそれぞれが認識している歴史の出来事を時系列に描き、現在起きていることの意味合いをチームで再確認する。そうすることで、現在の立ち位置がより明確になるようです。
佐宗さんは「組織の歴史は一人でつくったものではなく、集合的にさまざまな人が登場しつくり出してきたものです。そこを考察することで無意識に存在する共通の組織文化が浮かび上がるのです」と話します。
もちろん、創業者が健在であっても、その修羅場体験など、企業で語られていないことをまとめていくことは有効です。創業者みずからが語り部となり、そこに客観的であり適切な聞き手がいることで、それが史実としてまとまり、大きな価値を持つはずです。
ただし、その歴史が年表のような単なる事実の羅列では、人々の共感を起こすことはできません。シナリオ講師のロバート・マッキーはその著書『ストーリー』で、優れた物語には「ギャップがある」と述べています。
「主人公の眼前にギャップがひろがれば、観客の前にもギャップが口をあける。それこそが、考え抜かれたストーリーで何度も体験するあの衝撃の瞬間、『まさか!』や『だめだ!』や『いいぞ!』である」
いつの時代も、リーダーは何らかの欲求や目標があり、それを実現するうえでいくつもの障害や葛藤を乗り越えてきました。個人の成長、組織の成長があって、いまの企業の形にまでたどり着いたはずです。その成長の過程を描かなければ、人々が共感を抱くことは難しいでしょう。
一橋大学名誉教授の野中郁次郎氏は、本誌に「最近ではパーパスと呼ばれているものもそうですが、WHYを入れることで関係性は広がり、人の主観に訴え、行動へと駆り立てるのです」と語ります。単なる事実の羅列である静的な「ストーリー」(物語)ではなく、その事実の因果を説明するためのWHYを入れ込むことで動的な「ナラティブ」(物語り)となり、人を動かすことにつながるとして、戦略にナラティブを込める意義を強調しています。
物語を世に普及させた一人に、劇作家のシェイクスピアがいます。イェール大学で30年間シェイクスピアについて講じたハロルド・ブルームは「シェイクスピア以前の登場人物は、ストーリーが進むにつれてその人物像の全体が明らかになることはあっても、成長することはなかった」と述べたそうです。
つまり、企業の物語には、史実をもとにしながらも「主人公(組織)が成長する」という要素が欠かせないということです。リーダーは、自身や組織が成長した体験を部下に語り、部下が何を思うかに耳を傾け、パーパスや理念に照らし合わせて互いに解釈するという活動を続けなければなりません。いつしか部下もそれらが行動の指針として役に立つことに気づき、ようやくその物語の一員になれるのです。
実際、ファスナー業界の世界トップ・ブランドYKKでは、トップリーダーみずからが車座の集会を開き、「善の巡環」という企業精神をツールに、長らく社員との対話を続けています。また、年間を通じて「経営理念研究会」という若手主導のプロジェクトを行っており、若手社員がその精神をどう解釈したのかについて経営側に発表する場を用意しています。トップダウンとボトムアップの双方向から対話が続く仕組みを整備して、競争力につなげているのです。
ただし、その物語は、時に痛ましい事件や事故から紡がれる場合もあります。
2024年初頭に起きた日本航空(JAL)機炎上事故では、乗員379人を無事に避難させたキャビンアテンダントの対応が称賛されました。その徹底した訓練の背景には、日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故があると言われます。組織としてその教訓を語り継いできたことが今回の救出劇につながったのでしょう。
酒井准教授は「企業は痛ましい出来事も含めて、過去の出来事を可能な限り整備して後世のために残していくべきです。それらは現在、そして未来に対して大きな力になります」と述べます。
このように、パーパスの浸透には、リーダーが過去、現在、未来をつなぐ物語を語り、対話を通じて人々のマインドセットを変えていくことが欠かせません。「会社の歴史」という資産は、他社が模倣できるものではありませんし、調査に多額の費用がかかるものでもありません。従業員の「記憶」として常に彼らとともにあり、もっとも親しみを抱いている「何か」であるはずです。そのため、組織を変えるうえでもっとも優れたツールになりえるのではないでしょうか。
(編集長 小島健志)