労働組合運動の父――高野房太郎と片山潜
足尾銅山鉱毒事件の背景には、西洋列強に対抗するための殖産興業政策がありました。外貨を稼ぐ輸出品として殖産興業の柱となっていたのが銅です。なかでも足尾銅山は、1877年(明治10)に古河市兵衛(ふるかわいちべえ)が経営に着手して以来、富鉱脈の発見や生産技術の近代化によって生産量が急増し、20世紀初頭には日本の銅産出量の4分の1を担う大鉱山に成長しました。ところが、急激な鉱山開発により鉱滓(こうさい)が洪水で渡良瀬川に流出して農地を汚染、農業に大きな被害を及ぼし、下流域の住民を苦しめることになるのです。
維新後の急速な工業化は、公害問題のみならず、労働者の生活を犠牲にするという問題も引き起こしました。1899年(明32)に横山源之助がまとめた『日本之下層社会』では、当時の社会のひずみが鋭く指摘されています。
こうした社会情勢のなか、「労働組合期成会」を立ち上げ、1897年(明30)12月1日に日本最初の近代的労働組合「鉄工組合」を正式に発足させたのが、日本における労働組合運動の先駆者といわれる高野房太郎(ふさたろう・1868~1904)と片山潜(せん・1859~1933)です。
長崎に生まれ、東京・横浜で育った高野は、1886年(明治19)に実業家を目指して渡米し、働きながら英語と経済学を学びます。当時のアメリカでは労働運動が活発化しており、高野も1891年(明治24)に在米日本人の仲間たちと職工義友会を創立します。
1894年(明治27)、アメリカ労働総同盟(AFL)会長のサミュエル・ゴンパースは、高野の熱意と才能に感銘を受け、彼をAFLの日本担当オルグに任命します。労働組合を日本に定着させるという志を持つ高野は、1896年(明治29)に帰国して職工義友会を再建すると、同年4月に日本最初の労働運動の宣伝パンフレット『職工諸君に寄す』を執筆刊行し、労働組合の結成を呼びかけました。同年6月には、職工義友会主催の労働問題演説会を大成功させ、7月に労働組合運動の宣伝啓蒙団体「労働組合期成会」を結成、さらに鉄工・機械工を組織して「鉄工組合」を結成します。
高野は名刺の裏に、「労働は神聖なり、結合は勢力なり、神聖の労働に従う人にして勢力の結合を作らんか、天下また何者かこれに衝あたる者あらんや。我が日本の職工諸君の為すべきこと、ただそれ結合を為すにあるのみ、組合を設くるにあるのみ」というスローガンを刷り込んでいました。これは、労働運動の原点としての彼の志をよく表しています。
一方、美作(みまさか)国久米南条郡羽出木村(現岡山県久米郡久米南町)に生まれた片山は、岡山師範学校(現岡山大学)に入学するも、向学心に燃え上京して働きながら漢学塾などに学びます。ところが、「アメリカは貧乏でも勉強のできるところ」と聞き、旅費のカンパと借金で1884年(明治17)に渡米しました。
皿洗いなどをしながら苦学した足かけ13年、グリンネル大学で文学修士、エール大学で神学士の資格を得て、1896年(明治29)に帰国します。ほぼ同時期にアメリカに滞在していた片山も労働問題や社会問題に目覚めますが、彼の場合はアメリカでキリスト教に入信しており、帰国後はキリスト教社会主義の立場から社会運動の実践に入ります。
1897年(明治30)3月、東京神田にセツルメント・キングスレー館を開設して社会改良運動をスタートさせた片山は、高野らの初期労働組合運動にも参加して、その先駆者として活躍。日本最初の本格的な労働運動機関紙である『労働世界』(労働組合期成会発行)の編集長として、労働者の権利意識の向上に尽くしました。
しかし、労働組合を日本に定着させるという高野の労働組合主義と、労働組合期成会内部で政治運動化・社会主義化への傾斜を深めつつあった片山の考えは、徐々に対立していきます。その後、高野は引退して中国青島(チンタオ)で没しますが、片山は社会主義の指導者へと活躍の場を変えていきます。異なる道を歩んだ二人ですが、日本の労働運動黎明期において、片山抜きに高野を語れず、また高野抜きに片山を語れないほど、二人が中心的指導者であったことは間違いなく、このことから、両人共に「労働組合運動の父」と称されています。
ただし、これについて、歴史教科書も含め多くの文献は、労働組合期成会の創設者として高野と片山の名を併記するものの、「労働組合期成会の創立者として第一に名を挙げなければならないのは、組織の構想者で、実践者であった高野房太郎です」(二村一夫『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』岩波書店)というように、二人を対等に位置づけることはできないとしています。
確かに、日本人が「労働組合」という言葉さえ知らなかった時代にいち早くその意義を理解して日本にこれを定着させるべく労働組合をゼロからつくり上げた高野の先駆者としての評価は不動のものといえるでしょう。一方、片山は、指導者としての影響力を持つに至ったとはいえ、労働組合期成会発足時までの活動については高野の一協力者にすぎなかったというのが真相のようです。
若くして没し回想録を残さなかった高野に対し、片山は『自伝』(改造社)を残し、運動衰退後も発行を続けた『労働世界』などの豊富な資料があったことから、片山の評価が実際以上に高くなった面はあるでしょう。また、軍国主義の反省と称した戦後の左傾化の波のなかで、社会主義に反対する立場をとった高野に対し、片山は社会主義運動の先駆者としてコミンテルン(共産主義の国際組織)の指導者になったことも影響しているでしょう。さらに言えば、学術研究者が政治的立場による偏見を持たなかったとしても、みずからの専門外の研究においては過去の文献の影響を受けるということもあります。
だとしても、片山が「労働組合運動の父」にふさわしい人物であることは事実です。なぜなら、本連載第一回で述べたように、先駆者たちが「父」と呼ばれる理由は、おのおのが活躍した分野で抜群の功績を挙げたことのほか、大きな志、日本人としての気概を持ち、彼らが属した地域や組織でかかわりを持った人々が、それらの「偉業と志を後世の人々に語り継がなければならない」という強烈な思いを持つからです。
偏見にとらわれない歴史的事実の精査が必要な一方で、それだけが先駆者としての立場を確定させるものではありません。いかなる政治的背景があろうとも、後世に語り継ぐべきであるという人々の想いがある限り、「父」なる称号は存在意義があるのです。高野と片山に関する学術研究と「父」なる称号の関係は、このことを如実に表しています。