グローバル化の時代に多様性のマネジメントが日本企業の課題であることは間違いありませんが、ようするにわれわれは多様性の「元祖」や「本家」と比較してああだのこうだのいっているわけです。地震を経験したことがなかった国に地震対策ができていないというようなもので、ことのいきさつからして日本企業が「ダイバーシティ下手」なのは至極当たり前です。

 考えてみれば、日本の高度成長をドライブしたのは国際競争力をもった製品の輸出です。日本企業は昔も今もドメスティックであったわけではまったくありません。

 僕の父は日本の機械部品のメーカーで営業をしていたのですが、1960年代からアフリカで仕事をしていました。そうした成り行きで僕も子どもの頃はアフリカで育ちました。アフリカから日本をみると、地図の上では遠く離れた極東であります。子ども心によくまあこんな遠いところまで仕事をしにくるものだ、日本の会社というのはずいぶんと「グローバル」だなあ、と思ったものです。

 ただし、この時代の日本企業はすぐれた製品を抱えて世界のあちこちの国々に突撃していればよかったわけで、製品や営業の仕方は現地に合わせて多少はモディファイするにせよ、経営は日本でやっていれば事足りました。経営のレベルでは多様性のマネジメントはさほど重要ではありませんでした。

 話はそれますが、これまでの日本ではヨーロッパのように多様性は所与の条件ではなく、むしろ人為的に作り出さなければならないものでした。システムの中に多様性を組み込む、これはいまも昔もダイナミズムを生み出すための重要な方法論です。江戸幕府の幕藩体制などは、そのことに途中から気づいた人々が設計した、多様性を人為的に発達させる極めて秀逸な仕組みだったといえるでしょう。

 問題は日本企業がこれからどうしていくかです。ここで大切なのは、「多様性」というキーワードには実はトリッキーな面があるということです。このところの「ダイバーシティが大切だ!」というかけ声にしても、ともかく多様性を受け入れることそれ自体が目的になってしまっているフシがあります。

多様性の先にある「統合」の仕方にこそ
その企業の経営の本領がある

 企業の中に多様性を取り込めば、それで何かよいことが次々に起きるかのような安直な議論が少なくありません。多様性を認めて受け入れることそれ自体はたいして難しいことではありません。もともと世界は多様なものです。企業活動をグローバル化しようとすれば、企業の中の多様性は自然と増大していきます。