日本人の成熟

 僕がオリンピックを観ていて(といってもテレビで観戦したのはごくわずか。実際は新聞やインターネットの報道を見ての印象だ。僕は自宅でテレビを見ることがまったくないのだが、今回はたまたまオリンピックの時期にヨーロッパにいたので、ホテルのテレビで久しぶりにいくつかの競技を観た)いちばんイイな、と思ったのは、観ているほうの日本人、日本の社会の成熟だ。

 かつての日本は、(ただテレビで観ているだけなのに)妙に気合が入りすぎていて、金メダルを取ると大騒ぎ、取れないと「何やってんだ!」とばかりに批判紛々だったような記憶がある。プレッシャーを苦に自殺してしまったマラソン選手の悲劇もあったし、期待されながらもメダルを取れなかった女子水泳選手が「やってんのはこっちだよ!テレビの前で寝っ転がってみているだけの連中にメダルメダルといわれたくない。そんなにメダルが欲しかったら自分でやれ!」とキレて(典型的な「それを言っちゃあおしまいよ」発言なのだが、ある意味正論)、これを受けたメディアが逆ギレするというみっともない一幕もあった。

 選手が日の丸を背負ってやっていることには変わりないが、かつてに比べていまの日本社会はずいぶん成熟したように思う。金メダルをとれば大喜びなのは当たり前だが、あと一歩で銀メダルや銅メダルに終わったり、メダルに手が届かなかった競技でも、選手に敬意を払い、健闘をきちんと称える。イギリス人のよく言う「グッド・ルーザー精神」がうかがえる。件(くだん)の女子水泳選手が当時しきりに言っていた「オリンピックを楽しむ」という状態に、やるほうも観るほうも、ようやく到達してきたのではないか。

 金メダルがゼロに終わった男子柔道の選手が、試合に負けて「金メダルをとれずに申し訳ありません……」と悄然とコメントしていた。気の毒な話だが、そもそも「柔道たるもの金メダルは必須!」とか真剣に期待している人や、「なんで金メダルがゼロなんだよ!」と真顔で怒るような人はもはやいまの日本にはいないのではないか。

 日本の人々のオリンピックへ反応は、いい意味での成熟を感じさせた。成熟はカネでは買えない。時間をかけなければ絶対に手に入らない、社会にとってとても大切なものだ。オリンピックへの関心が日本人平均の13%程度しかない僕でも、わりとイイ気分にしていただきました。

 ただ、ひとつだけヒジョーにイヤな感じがすることがある。このところやたらと連発される「感動をありがとう!」(書いているだけでも気分が悪くなる)というフレーズだ。どう考えても下品極まりないと思う。言葉として空疎で軽薄で強欲にすぎる。まるで雛鳥が口を開けて「感動」というエサをもらうのを待っているかのような言いぐさ。感動というものは、人からもらって「ありがとう」というようなものではない。「感動をありがとう」というのは(スポーツをするのも観るのもまるで関心がない僕が言うのもなんだが)自分のすべてを賭けて試合に臨んでいる選手に対しても失礼千万な物言いだ。これ、なんとかならないものだろうか(こう思うのは僕だけなのかな?その辺が知りたくて、蛇足ながら書いてみた。皆さんはどう思いますか?)。

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