「見える化」よりも「話せる化」

 たとえばCFO。CFOは経営者であり、担当者(財務スタッフ)ではない。専門的な知識をもち、分析や評価のツールを使いこなすスキルがあるだけでは、わざわざ経営陣の一角にCFOを置いておく意味はない。外部の専門家を使えば事足りる。専門知識やツールに精通したうえで、それに縛られることなく、独自の洞察で経営判断ができてこそのCFOだ。

 戦略を構想し、戦略的な意思決定を担うことができるのは、経営者しかいない。「見える化」の担当者に経営者の仕事を侵食させてはならない。経営者が戦略の仕事を担当者に丸投げしては元も子もない。

 第4に、組織の内と外とを区別する。前回述べたように、「見える化」の要請は株主からのプレッシャーが大きくなったことと深く関連している。「見える化」すればアウトサイダー(例えばアナリストや株主)にも話が通りやすい。組織の中でも、意思決定の「正当性」についての合意を得やすい。正しい行動や判断をするための材料を提供する。これが「見える化」のそもそもの目的のはずだ。僕の見るところでは、しかし、本来の目的から外れて、「見える化」が意思決定の正当性確保の便法にすり替わってしまっていることが少なくない。

 経営の外にいる株主やアナリストは見えるものしか見ない(見ようとしない)。そうした外の人々に対して効果的・効率的な説明を果たしていくことは経営者の責任ではある。しかし、こうした「見える化」志向が、本来もっと分かり合える関係にあるはずの組織内部でも支配的になってしまえば、それはもはや「見えすぎ化」である。

 経営の透明性やオープンさは大切だが、何もかも透明でオープンであればよいというものではない。組織の中での意思決定と、組織の外への説明とをはっきり区別する必要がある。「二枚舌」ということではない。外部から見ているだけではそう簡単に判断がつかないこと、社外の人々には思いもよらない微妙な機微まで勘案して決断する。その会社に固有の文脈についての深い知識と洞察と信念がなければできない意思決定をする。ここに経営者の付加価値がある。

 そもそも、社外の人々でも容易かつ完全に理解できるような意思決定ばかりであれば、組織が組織として存在する理由はない。経営がそう簡単な話で済まないからこそ、会社という「分かり合った人々の集団」としての組織の存在理由がある。

 繰り返し言う。経営者は担当者ではない。担当者レベルでは「見える化」が大切だとしても、それだけでは経営は立ちいかない。自分たちの意思決定の理由を、安直な数字の物差しに頼らず、正々堂々と自分の言葉で説明し、社内外のステークホルダーの支持と納得をとりつける。数字よりも「筋」。見える化よりも「話せる化」。ここに経営の王道がある。
 

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