山県は、1869年(明治2)に渡欧し、各国の軍事制度を視察して帰国後、大村益次郎(ますじろう)の後継として、西郷の協力を得て軍制改革を行い、徴兵制度(徴兵令)を取り入れました。さらに、参謀本部の設置や軍人教育の根幹を定めた軍人勅諭の制定にもかかわり、日本の近代軍隊を確立したのです。
1890年(明治23)には、西郷、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)に次いで、小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)と共に陸軍大将に昇進し、日清戦争(1894~95年)では第一軍司令官として出征、日露戦争(1904~05年)では参謀総長として指揮を執りました。その間、山県内閣を二回組閣し、伊藤と共に内政、外交、軍政の最高指導者として活躍します。
「明治国家建国の父」たちの明治改元(1868年)時の年齢は、西郷が42歳、大久保が39歳、木戸が36歳、伊藤が28歳、山県が31歳でした。明治国家建国は、これら若者たちの力が大きな原動力となったのです。
坂本龍馬の二つの称号
最後に、幕末維新期に活躍し、国民的な人気を誇る英雄・坂本龍馬(1836~67)を紹介しましょう。

土佐藩を脱藩して海援隊を組織し、政治的には薩長同盟を成し遂げ、世界に眼を向けて疾走した龍馬の生きざまは、多くの日本人の共感を呼びます。とりわけ、「組織に属さず自由な発想で」「世界的視野に立って大局的な仕事を完遂した」現実的な判断力と行動力を、日本人は理想的な生き方と感じるのでしょう。
司馬遼太郎氏の国民的小説『竜馬がゆく』(文藝春秋)に、大政奉還後の新政府官制案を西郷隆盛に見せた時、西郷が龍馬の名前がないのを見つけ、理由を聞いた描写があります。そこで龍馬が発したセリフは、彼の「父なる称号」を彷彿とさせます。
「世界の海援隊でもやりましょうかな」。真偽のほどはともかく、龍馬が活動の拠点とした海援隊は、近代的な商社活動として評価されており、龍馬の死後は、いったんは解散した海援隊の後進として、大坂の土佐藩蔵屋敷で始められた九十九(つくも)商会が岩崎弥太郎に引き継がれていきます。さらに岩崎によって三菱商会、郵便汽船三菱会社、三菱商事へと発展したことはよく知られています。このことから、龍馬を近代日本の「総合商社の父」と評価する声があるのは当然です。
一方で、龍馬という人物の歴史的意義として、新国家日本に「公議」を持ち込んだことを高く評価する意見もあります。龍馬の提示した「船中八策(せんちゅうはっさく)」は、後の薩土盟約、土佐藩の大政奉還建白書、五カ条の御誓文(ごせいもん)に連なる内容でした。そこには、「政権を朝廷に奉還し、政令は朝廷より出すべきこと(大政奉還)」としたうえで、「上下議政局ヲ設ケ議員ヲ置キテ(略)万機宜シク公議ニ決ス」と二院制議会開設が提示されています。これは、明確な国家ビジョンであり、これこそが明治新政府に受け継がれ、日本に「公議」、すなわち「議会制」の原理が持ち込まれる基本となったことから、龍馬は「議会の父」とも評価されているのです。
(つづく)
「明治維新の父」八人の墓所
島津斉彬墓所(玉龍山福昌寺跡・鹿児島県鹿児島市池之上町)
吉田松陰墓所(山口県萩市大字椿東/松陰神社・東京都世田谷区若林)
西郷隆盛墓所(南洲墓地・鹿児島県鹿児島市上竜尾町)
大久保利通墓所(青山霊園・東京都港区南青山)
木戸孝允墓所(京都霊山護國神社・京都府京都市東山区清閑寺霊山町)
伊藤博文墓所(伊藤博文公墓所・東京都品川区西大井)
山県有朋墓所(護国寺・東京都文京区大塚)
坂本龍馬墓所(京都霊山護國神社・京都府京都市東山区清閑寺霊山町)
※本文中およびタイトル写真出所:国立国会図書館ホームページ