「活版印刷の父」と「新聞の父」
明治維新後の日本が近代国家を建設するためのスローガンにした「富国強兵」は、産業保護の育成政策として知られる「殖産興業」や、西洋文明による衣食住の変化を表す「文明開化」と共に日本の近代化の中核を成す政策でした。近代日本における「父」という称号も、これらに従って分類できます。資本主義経済を発展させて国の財政を豊かにする「富国」政策に該当するのが「資本主義の父」(第6回)と「殖産興業の父」(第11回、第12回)、また「強兵」政策は、「陸軍の父」(第9回)と「海軍の父」(第10回)で紹介しました。そこで今回は、文明開化にかかわる父たちを紹介します。
明治初期、東京・大阪・京都などの大都市や、開港地の横浜・神戸・長崎を中心に、洋服や靴、ガス灯、学校、新聞、雑誌、建築、食べ物等々、衣食住のあらゆる面で西洋化が急速に進み人々の生活は劇的に変化しました。なかでも西洋式活版印刷は、新聞や雑誌の発行を急速に発達させ、まさに文明開化の象徴というべきものでした。ちなみに、「文明開化」という造語は、福沢諭吉が『西洋事情』において初めて使用したといわれています。
幕末の長崎に生まれた本木昌造(1824~1875)は、日本最初の活版印刷といわれる「流し込み活字」を製造し、自著『蘭和通弁(らんわつうべん)』を印刷した人物です。通詞という職業柄、西洋の優れた技術と学問に触れる機会の多かった本木は、長崎製鉄所汽船船長や製鉄所頭取などの要職を務めるかたわら活版印刷を研究します。1869年(明治2)には製鉄所付属の活版伝習所を設立し、アメリカ人技師ウィリアム・ガンブルを招いて金属活字の本格的な鋳造に成功しました。その翌年、長崎新町に活版所を創設し、門下の平野富二(とみじ 、後の石川島播磨重工業、現IHIの源流をつくった人物)、陽其二(ようそのじ)らと、明朝書体の号数活字の合理的システムを開発します。これが今日の活字文化の基礎となり、本木は「近代活字の父」「近代活版印刷の父」と称されています。
本木は、1868年(慶応4)に「崎陽雑報(きようざっぽう)」を発行、1873年(明治6)には「長崎新聞」(現在の長崎新聞とは無関係)を創刊します。いずれも短命に終わりますが、本木の印刷技術は1870年(明治3)、「横浜毎日新聞」の創刊に生かされます。この日本最初の日刊紙創刊に当たって、本木は神奈川県令・井関盛艮(もりとめ)に活字の作字や鋳造などの技術を提供するほか、門弟を派遣するなど助力を惜しまなかったといいます。
これに先立つこと6年、日本人向けの新聞を発行した人物がいました。「日本国新聞発祥之地」という記念碑が建つ場所(現横浜中華街)で、1864年(元治元)に「新聞誌」(翌年「海外新聞」に改題)を発行したジョセフ・ヒコ(日本名は浜田彦蔵、1837~1897)です。彼はまた、多くの「日本人初」を経験した人物でした。

播磨国加古郡(現兵庫県加古郡播磨町)生まれのジョセフ・ヒコは、13歳の時船で遭難し、漂流の末、アメリカ商船に救われサンフランシスコへ到着します。帰国を望みますが、アメリカ政府が自分たちを送り届ける名目で、日本に開国を求めようとしていることを知り、断念。優秀だった彼は税務長の知遇を得て、日本人で初めて3人の大統領と正式に謁見し、1858年(安政5)、日本からの帰化第一号としてアメリカの市民権を得ています。
その後、21歳でアメリカ領事館通訳として帰国しますが、外交の場で活躍し再び渡米、リンカーン大統領と会見する機会を得て、彼と握手した唯一の日本人となりました。帰国後は実業家に転じ、岸田吟香(ぎんこう)の協力の下、外国人居留地の英字新聞を抜粋・訳出した日本初の新聞を発行し、日本の「新聞の父」の名をゆるぎないものにします。月2回、100部24号まで発行された同紙は、庶民にも情報を開示するなど、事実を正しく伝えようとする彼の情熱に満ちあふれていました。また、彼には自著が2冊ありますが、『漂流記』(1863年)は江戸時代に木版刷りされた唯一の漂流記、英文自伝『The Narrative of a Japanese』は日本人初の英語による自伝です。
新聞の発行をはじめ、多くの「日本人初」の偉業を遂げたジョセフ・ヒコは、1897年(明治30)12月12日、60年の数奇な生涯を閉じました。当時は法律が未整備で国籍法がないため、日本人に戻るという彼の願いはかなえられず、いまも外国人「ジョセフ・ヒコ」として、青山霊園外国人墓地に眠っています。