確かに「音楽の録音、再生」は四つ目の機能として挙げられているが、この軸足の定まらないリストから容易に想像される通り、エジソン自身はこの蓄音器という発明品を、どのようにして商業化するかについてかなり困惑していたらしい。結局、エジソンは蓄音器を発明したものの、その直後に開発した白熱電球に関心を集中させ、蓄音器は棄ておかれることになる。

 エジソンの天才性は、発明のアイデアを生み出す事よりも、そのアイデアを商業的な価値を生み出す仕組み、今風に言う「ビジネスモデル」を構築することにこそ発揮された、というのが後世の多くの歴史家の評価だが、その「商業化の天才」であるエジソンですら、蓄音器の持っているビッグバン的な商業価値を見抜くことは、出来なかったのである。

電話の特許買い取りを拒否した電信会社

 あるいは電話に関しても同様のことが言える。電話を発明したのはアレクサンダー・グラハム・ベルであるが、彼はやっと開発に成功した電話機の特許を、すぐに他者に売却しようとしてしまう。

 ベルは電話機の発明者として歴史にその名を残したのだが、通信事業そのものにはあまり関心がなかったのである。彼が終生のテーマにしていたのは「聾(ろう)教育」だった。ベルの母と妻が難聴者だったことは余り知られていない。電話を発明した当時のベルの肩書は、「ボストン大学音声生理学教授」というもので、ベルはここで鉄の薄板を人工鼓膜として用いることで、難聴を治癒するという研究に打ち込んでおり、これが電話機に振動板を用いるというアイデアにつながっていくことになったのである(この点は、異分野の知がイノベーションの源泉となるという現象の一つの事例でもある)。

 このように、通信事業そのものに余り興味がなかったベルは、当時アメリカ最大の電信会社であったウェスタンユニオン社に、自分が発明した電話機の特許を10万ドルで売却しようとする。しかし、なんとウェスタンユニオン社は、この申し出を断ってしまうのである。ウェスタンユニオンは、ベルの申し出に対して以下の様な返答をよこしている。

“貴殿の提案した電話機について、慎重なる検討を重ねた結果、この機器が電報を代替して通信手段になりうる可能性は全くないという判断に至りました”