ヘッドハンティングを断り社内起業を企画

 企業派遣の海外留学者は帰国後ヘッドハンティングがかかり、派遣企業を退社するケースが多い。新浪氏にも転職の誘いが来た。しかし留学後も会社に留まったある先輩から、こんなことを言われる。「この会社にいて、求める方向と自己実現が同じなら、大きいことができるぞ。ベンチャーキャピタルに行っても2、3千万円をちょこちょこやっているだけだ。コンサルティングにしても、自分でやるんじゃない。他のところはよく見えるが、よく考えろ」この言葉で新浪氏は転職を思い留まる。後に彼は「単純に独立という道を選んでいたら数億円の仕事がせいぜい。三菱商事の看板を背負っているからこそケタの違う仕事ができる」と語っている。

 会社から与えられた仕事ではなく、もっと大きい仕事にチャレンジしようと、34歳の新浪氏は病院給食を手掛ける事業を自ら企画し、社内起業を志した。「その具体化は任せてください」と上司に直訴して自ら社長となり、10数億円売り上げていた会社を買収して、それを足掛かりに社員30名の会社をスタートさせた。そしてわずか5年で売上高100億円規模の会社にまで育てあげる。「給食会社には55歳から65歳ぐらいの、銀行から天下った人たちがたくさんいた。そこに三菱の資本を入れて新たに創業したんですが、最初は『この小僧が』という目で見られ、すごく難しかった。でも、これはと思うプロパー社員三人に『こういうことをやりたいんだ。一緒にやろう』と自分の思いを何十回、何百回と語った。そしたら、その三人が会社をつくっていってくれました」

 そんな新浪氏のもとに1999年秋、ダイエー会長を退いていた中内功氏から「ローソン株の一部を、三菱商事に持ってもらいたい」との提案が寄せられた。苦境に陥っていたダイエーにとって、ローソンは優良子会社であり、いわば虎の子だった。2兆円超に膨れあがったダイエーの借金を減らすために、株式売却を持ち掛けてきたのである。新浪氏はローソン株の買い取りを三菱商事経営陣に提案し、中内氏との仲立ちをした。

 結局、三菱商事は28%の株式を約2,000億円で購入して筆頭株主になり、ローソンの経営を担うことになった。このような状況下で、新浪氏は当時の三菱商事・佐々木幹夫社長に直談判し、自分がローソンの社長をやりたいと申し出る。「10年前に給食会社を立ち上げたとき、すごく燃えたんです。あの時は34歳だったけど、僕はもう一度燃えたい」。佐々木社長は何と、新浪氏の申し出にOKを出した。そのことは本人も含めて、周囲を驚かせる。このとき新浪氏は43歳。出向ではなく転籍してローソンCEOになった。

 彼は三菱商事では課長レベルのポジションだった。ローソン社長への抜擢は、東証一部上場の小売専業企業としては最年少トップとなる、異例の人事だった。三菱商事は新浪氏をローソンへ送り出す際、全面的に支援する。当時の佐々木幹夫社長と小島順彦副社長は次のように言ったと伝えられている。「同じ価格で同じ品質だったら、三菱商事から買う必要などない。メリットがあるなら商事から買えばいいが、それ以外なら買う必要は一切ない。つねにローソンの企業価値向上に努めてくれ。何か問題があったら、いつでも俺たちに言ってこい」