たとえば、従業員たちの意思が会社の意思決定に大きく反映される傾向のある会社の前に、ハイ・リスク=ハイ・リターンではあるが、その大きなリスクを考慮しても割安つまり相対的に有利な事業機会が現れたとしよう。この場合、株主にとっても従業員にとっても合理的なのは、その事業機会を取ること、つまりリスクに挑戦することである。ただ、その場合、従業員支配度の強い会社はそうでない会社に比べて、従業員たちに「多めの補償」が支払われるだろう。しかし、いわゆる雇用慣行や社会全体の雰囲気によって、必ずしも「多めの補償」が払われないとすれば、会社はリスクを回避したがる傾向を持つことになる。コースの定理では、そう考えるのである。

 コースの定理についてのこれ以上の詳しい説明は省略するが、この定理の基本は、企業であれ他の組織や経済社会であっても、その決定は企業や組織が掲げる目標の価値つまりは「パイの大きさ」を最大化するべく決定するのが合理的であり、誰が決定者であるかという問題は、その後の「パイの切り分け方」にのみ影響するはずだと整理してもよいだろう。企業がロー・リスク=ロー・リターンの事業機会を選ぶか、それともハイ・リスク=ハイ・リターンのそれを選ぶかは、それだけでは企業価値には関係がない。企業価値に影響するのは選んだ事業機会が割安か割高かなのだという前回の説明も思い出して欲しい。そうすれば定理の意味はさらに分かりやすくなるはずである。

 しかし、この辺りで、実務を良く知る読者からは、異論あるいは反論が出そうである。それは、理論ではなく事実の問題として、日米企業の収益性には大きな差があることが観察されるからである。コースの定理が説くような話が通用しているのだとしたら、なぜ日米企業の収益性に大きな差があるという「事実」が生じているのだろうか。やはり、企業のガバナンス構造は、企業に事業選択に大きな影響を与えているのではないだろうか。そうした疑問が生じるはずである。

 次回は、この問題を考えてみよう。

 

(注1)企業価値が単なる経営資源の合計値ではなく、その結合あるいは仕組み自体から新しい価値を生じているのだと最初に論じたのは、ロナルド・コース(1910年-2013年)だろう。彼はこの命題を1937年に『企業の本質(The Nature of the Firm)』という名の論文で提起した。

(注2)ロナルド・コースはこの命題を1960年に『社会的費用の問題(The Problem of Social Cost)』という名の論文で提起した。この論文は、温暖化ガス排出権取引の理論的基礎として説明されることが多いが、組織と交渉の原理を示した論文として読み直せば、コーポレート・ガバナンスと企業の意思決定問題との関係を理解するためにも十分に有効である。ちなみに、コースは、彼の生涯での主要な論文をまとめると1冊の本に収まってしまうほど寡作ではあったが、その主張の新しさと残した業績の意義の大きさからみれば、間違いなく20世紀で最大級の仕事をした経済学者の一人である。