身構えるリーダーがいるのはなぜか

 アイデンティティに基づく差別が存在することを認める何気ないコメントさえ、人によって異なる印象をもたらす。

 社会的に取り残されてマージナライズ(周辺化)された経験のある人は、力を与えられたように感じて、自分の経験が言葉で表現されたと思うかもしれない。自身は経験していなくても共感を示す人もいるだろう。しかし一部の人々、特に自分のアイデンティティが理由で疎外されたという経験がまったくない人たちの場合、そのようなコメントを曲解して受け止めることがある。なぜか。

 特権に伴う機能の一つに、特権的なアイデンティティを「アイデンティティ」と考える必要が、めったにないことが挙げられる。

 米国では歴史的に、力の不均衡によって女性や有色人種、宗教的マイノリティ、身体障害者、LGBTQ+の人たちは常に、自分たちが違うことを意識させられてきた。一方で、男性、白人、健常者、ストレート(異性愛者)、シスジェンダー(生まれたときに割り当てられた身体的性別と、自分の性自認が一致している人)たちは、自分たちの男らしさや白さ、健常な体、異性愛者であること、シスジェンダーであることについて、わざわざ考えなくても一生を過ごせる。

 特権を持つリーダーたちにとって、一見何でもないような職場でのコメントが、自分の人種やジェンダー、セクシュアリティについて、初めて意識的に考えるきっかけとなる場合がある。このようなリーダーたちは、みずからが属するグループについて言及されているのを聞き、自分のアイデンティティの何らかの部分がこれまで以上に目につき、非難されているように感じて身構えるだ。

 たとえば、こんな例を考えてみよう。ある女性が「この前、職場で男性に冷やかしの口笛を吹かれた」と言ったとき、それを聞いた人たちの中で白人男性がちょっと居住まいを正し、「私は男で、私の属するグループが攻撃されている!」と、意識的であれ無意識であれ考える。

 もし誰かが「白人の脆弱性のせいで、人種に関する難しい対話がますます困難になっている」と強く主張したら、白人は「私は白人だ。『脆弱』と言われるなんて侮辱だ!」と思うだろうし、あるいはクィアの人が「チームメートたちに同じストレートだと見なされると傷つく」と認めたら、同僚は「私はストレートだけど、それは私の過失ってこと?」と思うかもしれない。

 社会学者のロビン・ディアンジェロは、人種に基づくこの種の批判に対する過剰な防衛反応を「白人の脆弱性」と呼び、それは白人たちが人種に関する真剣な会話を交わした経験がなく、「人種のスタミナ」に欠けていることに端を発すると論じている。簡単に言えば、白人たちはこうした問題を安心して探究する場を持ったことがなく、多くの白人にとって、みずからのアイデンティティについて深く考えるのはそのときが初めてなのである。

 白人や特権のある人たちがこのような話題を掘り下げられるように、我々は皆、特にD&I実践者は、心理的に安全な場所を提供する必要がある。そうでなければ、自己弁護的反応ばかりが続き、我々が求めている支援を、これらのリーダーたちから得ることはできない。

 私自身は仕事を通じて、役に立つ方法を2つ発見した。それはアイデンティティを見識として捉え、公平さに目を向けることである。