●「世論という法廷」は、法律よりも個人の理屈に依存している

 参加者には、仮想シナリオを読み、自身の反応について回答してもらった後、なぜそのように反応したのか理由を説明してもらった。その結果、何が人権侵害にあたるかは、外的情報を参考にするのではなく、自分自身の道徳的指針や個人の判断に頼る可能性がはるかに高いことが示された。

 実際、国連などの法的枠組みや人権法の概念について言及したのは、わずか6%であり、ほとんどの人は個人的な感情や理屈に頼っていた。そして重要なのは、個人の判断と広く確立された人権の定義とが一致することが多かったものの、常に一致するわけではなかったことだ。

 たとえば、ある地域の土壌汚染に関与していた企業を人権侵害に関与していないと判断したのは、その実験参加者が「大きな一線を越えていない」と感じたことが理由だった。同様に、文化的権利や先住民の権利に関して確立された基準に違反しているにもかかわらず、「聖地を破壊するのは、人権とは関係ない」と説明した参加者もいた。

 また、法的基準に沿った意見であっても、それが論拠になっていないことが少なくなかった。たとえば、ある参加者は「どのような形であれ、企業が児童労働を利用することは、道徳的に非難されるべきだと思う」と説明した。企業の人権侵害への関与に対する人々の判断が、いかに個人の道徳的立場によって導かれているかを示す好例である。

 個人としての理屈も、重要なのは確かだ。特に、人権のように複雑で、専門家たちでさえ法的ガイドラインについて議論を続けている分野においては、確立された枠組みとともに、世論を考慮することは悪い考えではないだろう。

 実際、筆者らの実験調査でも、人権に関する世論が時として、企業に対して厳しい要求を突きつけることが示されている。

 それでも、世論が国際的に承認された基準の代わりにはならず、「世論という法廷」は人権侵害を判断する存在として、一貫性がないことも忘れてはならない。特に、米国の国民は、企業が関与している人権侵害の種類によっては、また加害者と遠い関係にある場合には、企業を否定的に判断する可能性が低いため、状況によっては、企業に国際的なガイドラインを遵守するよう促すことができない場合があるのだ。

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 このように、企業のリーダーは、「世論という法廷」で自社が受ける裁きに影響を与えうる要因について、注意深く考慮する必要がある。世論にはもちろん注意を払うべきだが、世論だけに頼って意思決定をしてはならない。

 結局のところ、人権のために立ち上がることは、企業イメージを高めたり、金銭的報酬を伴うこともあるが、常にそうだとは限らない。いずれにせよ、正しいことを行うことは、リーダーの責任である。


"Public Opinion Is Not Enough to Hold Companies Accountable," HBR.org, September 06, 2022.