感情ではなく、事実によって誤解を解く
攻撃されたら、防御的になるのは自然なことである。特にその攻撃が不当だったり誇張されていたり、正確でないと感じたりする時はそうだ。だが自己防衛は、嘲笑をさらに助長するだけだ。もし不正確な情報のせいで反応が激化しているならば、誤解を解いて事実を認識してもらうためにできることをしよう。ただし、不当な言いがかりへの反論としてではなく、必要な情報として伝えるように注意しなければならない。デニスはこう振り返る。
「私はひどく憤慨していましたが、それがにじみ出ないようにもっとうまくコミュニケーションを取れたはずでした。いま思えば、私が許容したとか見て見ぬふりをしたとか言われるのは、どうでもよいことだったのです。重要なのは、従業員が我が社の文化をとても大切に思っていて、それが踏みにじられたことに激怒していたということです。従業員はただ、不可解なことに何とか説明をつけようとしていたのです。私も同じくらい激怒し、憤慨していたことを従業員たちはわかっていませんでした。自分もみんなと同じ気持ちであることを伝えないまま、私はただ自分を弁護したのです。それが事態を悪化させてしまいました」
謙虚さと透明性を大切にする
とがめられたり責められたりすると、たとえそれがいわれのないものであっても、反射的におとしめられたと感じてしまうだろう。どこかに隠れて、身を守りたくなる。無理もないことだが、その本能的な反応が事態をこじらせることがある。
直観に反するかもしれないが、透明性を高めることがあなたを有利にする。あなたの行動に原因があろうとなかろうと、さらにはまったく意図せぬことであろうとも、結果として、あなたの率いる人々はいら立ち、傷つき、怒り、混乱しているのである。あなたの仕事は、従業員の感情に正当性があるかないかを決めることではない。正当と思うかどうかに関係なく、従業員への共感を示すことである。拒絶と解釈されるような言動は、欺こうとしているという印象を与えかねない。
多くのリーダーは、謙虚な姿勢が罪悪感や後悔として伝わり、真実ではないのに「私のせいです」と認めることになるのを恐れる。だが実際は、謙虚な姿勢からは思いやりが示される。隠れたり避けたりする行動は、「私は有罪です」と大声で言うようなものだ。あなたの過失の程度を明確にしたい、あるいは減らしたいという思いは、従業員への思いやりとは切り離すべきである。
相反する助言は、あなたの価値観でふるいにかける
おそらく、大勢のアドバイザーが突然あなたのもとに現れて、どう対処すべきかについて無数のアイデアを提供しようとするだろう。デニスは、次のように話した。
「チームのメンバーは、私を擁護したいと思っていました。コミュニケーションチームが連れてきた危機管理コンサルタントは、『自信を持ちつつも親しみやすさを保つように』と言いました。法務・リスク管理チームは、会社の評判リスクを計算したうえで、できるだけ何も言わないことを私に促しました。人事部は、『対話集会を開催して従業員に感情を吐き出させるべきだ』と言いました。しまいに私は、自分の価値観を忘れてしまったのです」
専門知識のある人々がさまざまな選択肢を示してくれるのは、もちろん助けになる。しかし最後には、あなた自身が世間と向き合い、自分のメッセージを誠意を込めて率直に伝えなければならない。
何であれ、あなたが選択した態度や言葉は、難局に立たされた時のあなたの人格として、ずっと記録に残る。人々の記憶に残したい価値観に忠実になるべきだ。厳しい状況の中で、自分自身に対して不本意な認識を持たれたくなければ、苦境の最中でもあなたのありたい姿が現れるようにしよう。