3. 組織が抱える問題から目を逸らすために、思い込みのレジリエンスを利用しない

 私には幼い子どもがいて、パンデミックが始まってから長い間、子どもたちが無防備だと感じていた。私たちはウイルスについて何も知らず、ワクチンを接種できるようになるまでに2年もかかった。学校に行かないことが社会的、精神的にどのような影響を与えるのか見当もつかなかった。そして、そのことを議論しようとすると必ず誰かが肩をすくめて「子どもはレジリエンスがあるから大丈夫」と言うのだった。

 たしかに、子どもはいろいろな意味でレジリエンスがあるが、この反応に私は軽んじられていると感じた。そこで話を切り上げたり、その感情を防衛機制として受け入れたりすることができる親もいた。しかし、私を含む多くの親はその答えに満足できなかった。子どもたちを守る環境をつくろうと、私たちはできる限りのことをした。

 企業でも同じような会話がたえず繰り広げられている。レイオフや買収、同僚間の不和など、悪いことが起きると、リーダーが肩をすくめて「彼らは大丈夫だ」と言う。多くの場合はうまくいくのだろうが、このような疑問が湧く。「ただ最善を願うのではなく、できることを準備したほうがよいのではないか」

 問題そのものに責任を持つのではなく、問題を管理する個人に責任を負わせるためのメカニズムとしてレジリエンスが使われることがあまりにも多い。最悪の場合、レジリエンスは、企業が不都合な結果に対処する人に責任を転嫁するのに使われる。さらに悪いことに、その人がプレッシャーに耐えられなくなると、その人を非難し、「レジリエンスが足りなかった」と言うのだ。

 個人のレジリエンスに問題があるのではなく、システムに欠陥があって機能不全に陥っている場合もある。人間には、周囲の人に欠点があると見なす傾向がある。優れたリーダーであれば、問題が従業員だけにあると思い込んではならないと知っている。問題は組織にもあるはずだ。「ベティは精神的に強くない」「ゴータムはプレッシャーに耐えられない」などと同僚を批判するリーダーを私は多く見てきた。反対に、従業員が困難を乗り越えられるよう、自分に何ができるかと考えるだけの洞察力と自覚のあるリーダーはなかなかいない。

 難しいのは、この2つが同時に存在しうる点だ。つまり、人もシステムも問題を抱えていることがあるのだ。レジリエンスが必要とされる時、個人の内面が浮き彫りになると同時に、組織やリーダーシップの内側も明らかになる。従業員に内省を呼びかけているように、この機会に、そもそもレジリエンスに頼らずに済むよう、組織として何を改革し、何を是正すべきかを考えることもできるだろう。

 結局のところ、重要な教訓は、レジリエンスについての私たちの考え方や行動にバイアスがあるという点だ。最善の策は学び、成長し続けることである。そうすることで、組織と大切な従業員は単に生き残るだけでなく、成功できる。


"'Resilient' Isn't the Compliment You Think It Is," HBR.org, March 22, 2023.