
支出削減を求められるCMO
マーケティング分野におけるデジタル・トランスフォーメーション(DX)は、マーケティングの守備範囲と有効性を空前の規模に拡大させた。そして、マーケティングの新しいチャネル、新しいテクノロジー、新しい能力が出現し、投資の規模をこれまで以上に大きくする必要が出てきた。
しかし、よい時期は永遠には続かない。コロナ禍の到来により、マーケティング予算が削減されて、それまでよりも緊縮的な運営が求められる時代が訪れた。企業の最高マーケティング責任者(CMO)たちは、マーケティングテクノロジーなど、言わば聖域扱いされていた領域への支出削減を求められるようになった。
筆者が所属する調査会社ガートナーが何百人ものCMOを対象に毎年行っている調査では、近年のマーケティング支出の推移を明らかにした。そこからは、予算削減の圧力が強まる時代において、企業のマーケティングリーダーがどのようにして成果を上げ、いかに成長を加速させる組織の能力を伸せばよいかがわかる。
デジタルおよびテクノロジーへの支出を増やしてもよいとされた時代
あなたがはじめて「デジタル化」したのはいつだっただろう。筆者が初めて「デジタル」という言葉を肩書きに含んだ役職に就いたのは、20年前のことだった。その点では、筆者はデジタルマーケティングのベテランといえるだろう。当時は、マーケティングキャンペーンそのものを活性化させることと同じくらい、マーケティングキャンペーン実施ヘの社内支持を取りつけるのに多くの時間を費やしていた。
忘れている人も多いが、2000年代半ばにおいて、オフラインからデジタルへの移行を成し遂げることは一筋縄ではなかった。デジタルマーケティング部門のリーダーたちは、貪欲に「もっと多く」を求め続けた。もっと多くの予算を、もっと多くのテクノロジーを、もっと多くのデータを、もっと多くの人材を、もっと多くの上層部の関心を獲得したいと切望していたのだ。
振り返ると、これは「もっと多く」の時代の幕開けの時期だった。マーケティングの世界にデジタル化の波が直撃し、消費者や顧客と関わり、結びつき、取引するための選択肢が広がって、途方もなく大きな機会が生まれたのである。
しかし、この時期には、CMOにとって新たな試練も生まれた。CMOたちは、貪欲なデジタルマーケティング部門のリーダーと、それ以外の部門のリーダーたちの予算要求の間でバランスを取ることに苦慮するようになったのだ。その頃、デジタルマーケティング部門のリーダーたちは、説得力のある主張を展開した。デジタルこそ、有効性が高く、成果を数値計測できて、最適化可能な選択肢であると主張し、その利点を説き続けた。それに比べて、オフラインの取り組みはことごとく、古臭くて新味がなく、アナログ的すぎるように見えたものだ。
デジタルおよびテクノロジーへの支出を「もっと」増やしてもよいとされた時代
「もっと多く」の時代は、かなり長く続いた。デジタルは、言ってみれば食欲旺盛な怪物だ。魅力的なツールやテクノロジー、人材、チャネルを際限なく送り出すように見えた。筆者がマーケティング・アナリストになった2016年前半には、マーテック(マーケティング・テクノロジー)とデジタルチャネルがマーケティング予算全体のなかでかなりの割合を占めていた。
ガートナーの「CMO支出・戦略調査」によると、当時、平均すると企業はなんと売上げの12.1%をマーケティングにつぎ込んでいた。そして、2016年の時点では、このマーケティング予算の4分の1以上がテクノロジー関連に費やされていた。支出金額上位3つのチャネルは、すべてデジタル関連のものだった。
2016年は企業のマーケティング予算が過去最高に達した年ではあったが、この年の状況が特異だったわけではない。実際、マーケティング予算全体に占めるテクノロジー関連の割合が最も大きかったのは、2018年だった。この年は、マーケティング予算のおよそ3分の1(29.2%)をテクノロジー関連が占めていた。一方、マーケティング予算が会社の支出全体に占める割合は、2016~20年の平均で11.2%に上っていた。
「もっと少なく」にあっても「もっと多く」が進んだ時代
コロナ禍のロックダウンより前の2020年初頭に筆者らが実施した調査では、CMOたちは、コロナ禍がもたらす影響の全容をまだ予測できていなかった。結局、マーケティング予算は大幅に減り、カスタマージャーニーのあり方も根本から変わることになった。
その一方で、コロナ禍は、デジタルとテクノロジーの普及を強力に後押しした面もあった。それまでデジタル分野で後れを取っていたブランドも、感染症の大流行という新しい状況の下、否応なくデジタルチャネルへの移行を進めざるをえなくなった。ロックダウンの中で顧客とつながり、製品やサービスを売るためには、そうすることが不可欠だった。また、それ以前からデジタル分野に大々的な投資をしてきたブランドも、投資をさらに増やす以外の選択肢はなかった。
要するに、「もっと少なく」の時代にあっても「もっと多く」が進んだのである。この時期に、eコマース、デジタルチャネル、テクノロジーの活用が拡大した。2020年に筆者らが行った調査によると、CMOたちの間では、有料広告や広告代理店などへの支出よりもテクノロジーへの投資を維持する傾向が見られた。やがてコロナ後の時代がやって来て、「ニューノーマル」が現実になった時に成長を実現するためには、テクノロジーが不可欠だと考えていたためだ。
コロナ後の回復は遅々として進まなかった
目の前にぶら下げられたニンジンのように、コロナ後の「ニューノーマル」にはなかなか手が届かず、いら立ちの募る日々がここ数年続いてきた。世界保健機関(WHO)は、新型コロナウイルス感染症による世界規模の保健上の非常事態が終わったと宣言したかもしれないが、実際に「ノーマル」の状態を取り戻せたとは、まだとうてい言えない。
最近の米国の大手銀行の相次ぐ破綻から、さまざまなソーシャルメディア・プラットフォームの不安定な状況に至るまで、その影響の度合いに関係なく、数多くの問題が企業の最高幹部たちの心に重くのしかかっている。このような状況においては、企業の成長を妨げる要因がいくつも浮上する。
高金利:金利が上昇すれば、新しい投資の潜在的な投資利益率(ROI)に影響が及ぶ。現在のようなマクロ経済環境において、投資家は未来の成長よりも目先の利益とキャッシュフローを重んじる。また、金利が上昇していることの影響で需要が減り、成長の足が引っ張られていることも見落とせない。
逼迫が続く労働市場:昨今は社員の退職率が高まっていて、しかも、戦略面で重要な役職を担わせることのできる人材の獲得競争が激化している。そのうえ、社員の経営陣への信頼が弱まり、ハイブリッドワークやリモートワークをめぐる緊張も高まっている。
DXの遅れ:2023年にガートナーが実施した「取締役調査」によると、回答者である取締役の81%は、自社がデジタル関連の変革目標を達成できておらず、その目標に向けて前進することもできていないと考えている。しかも、2022年の調査では、CFOの67%は、過去3年間のデジタル関連支出が会社の期待に応えられていないと回答している。
近年のビジネス界の歴史をコロナ前とコロナ後に分けて考えるのはたしかに便利だが、それ以外の転換点に着目することもできそうだ。デジタル主導による成長を支援するためのツールや能力への投資を企業が集中的に行なっていた時期を脱し、そのような投資が利益をもたらすべき時期へ移行したといえるのかもしれない。
テクノロジーへの投資とデジタルマーケティングは、もはや「カッコいい」ものでもなければ、珍しいものでもなくなり、当たり前のものになった。ガートナーで用いている表現を借りれば、その種の投資は、「イノベーションのシステム」の段階から「記録のためのシステム」へ移行したのである。言い換えれば、革新的で、現状を激しく揺さぶり、おおむね有効性が実証されていないシステムから、戦略上オペレーションの効率性が重んじられ、企業が予測可能性、信頼性、安定性を求めるシステムへの移行である。