
キャリアの転換に「適齢期」はない
ローマ教皇庁がミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井画の制作を依頼した時、ミケランジェロはすでに彫刻家として高い評価を得ていたが、絵画はまだ一点も制作したことがなかった。しかし、ローマ教皇庁にとって、そしてミケランジェロにとって幸いだったことに、この賭けは成功した。ミケランジェロが初めて依頼を受けて制作した絵画は、歴史上屈指の壮大な絵画作品となり、いまも年間600万人の観覧者を集めている。
ミケランジェロだけではない。歴史を振り返れば、キャリアの転換を経て目覚ましい成功を収めた人の例は、枚挙に暇がない。たとえば、オプラ・ウィンフリーは、テレビのニュースキャスターから、トークショー司会者、映画俳優、プロデューサーを経て、メディア経営者になった。ヴェラ・ウォンは、フィギュアスケート選手からファッションデザイナーへと華麗に転身。弁護士出身のテノール歌手アンドレア・ボチェッリは、法廷からコンサートホールへと活躍の場を移した。
いまキャリアの転換を遂げる人は、かつてないほどに増加している。あらかじめ特定の職種やキャリアに狙いを定めて、それをもとに何を学ぶかを決める時代は、もはや過去のものになった。いまの時代に最良のプランは、そもそもプランを持たないこと、あるいは選択肢を多く残しておくこと、といえるのかもしれない。
キャリアの転換をテーマにした学術研究には、すでに数十年間に上る積み重ねがある。そうした研究は、キャリアを転換することのメリットとデメリットを明らかにするだけでなく、成功させるための最良の戦略と環境を見出すことを目指してきた。研究によると、一般的なイメージとは異なり、キャリアの転換が成功するかどうかは、年齢よりも、そのほかの組織的・心理的・環境的な要因に大きく左右されるという。つまり、キャリアの転換に関して特定の「適齢期」はない。それよりもほかの要因を検討すべきなのだ。
人がキャリアの転換に乗り出す主たる要因
この分野の権威であるロンドン・ビジネススクールのハーミニア・イバーラは、人がキャリアの転換に乗り出す主たる要因を整理している。その内容は以下の通りだ。
・環境面の要因(外的要因):景気や労働力需給などの市場環境、リストラなどの組織の変化、新しいチャンスの出現。しばしば「プル」要因という言葉で表現される。
・個人的な要因(内的要因):スキル、才能、嗜好、過去の経験、成長の段階、自己概念など、仕事上の役割とキャリアに関わる個人的な要因、人的ネットワークやきっかけ、新しい進路の追求を促す要因。
職業上のアイデンティティと私的なアイデンティティをどう定義し、両者をすり合わせるか
ここで特に重要なのは、「職業的アイデンティティ」という概念だ。それに加え、個人がみずからをどのような人間と考えているか、すなわち「自己概念」との関係に注目する必要がある。煎じ詰めれば、私たちのアイデンティティは、過去の仕事上の経験だけでなく、未来の仕事上の経験についての予想によっても影響を受ける。自分がみずからの自己概念とは合致しない方向へ進んでいて、「現実の自己」と「理想の自己」の間に食い違いが生じることが予想される場合、私たちは行動を起こして変化を起こそうという意欲を抱くのだ。
心理学の観点からいうと、キャリアの転換は、自己概念および自分のアイデンティティに沿った職業上の選択を目指す試みと見なすことができる。この見方は、1990年にウィリアム・カーンが最初に提唱した従業員エンゲージメントの考え方とも合致する。カーンによれば、特に同じチームや組織に属している人の間でも、働き手によってモチベーションと情熱とエネルギーの強さに違いが生じる主たる要因は、仕事上の人格をどれくらい自分らしいものと感じられるかだという。
仕事上の人格がみずからの自己やアイデンティティを反映していると感じている人は、仕事に対して強いエンゲージメントを抱きやすい。一方、そのように感じていない人は、ただ退勤時間が来るのを待つだけの日々を送り、職場で疎外感を味わい、仕事以外の活動に生きがいを探し始める。
では、私たちの自己概念とアイデンティティを形づくる要素は何なのか。ここで大きな役割を持つのは人的ネットワークだ。筆者の新著I, Human(未訳)で指摘したように、人間は物事に意味を求める生き物だ。そして、物事に意味をもたらす最大の要素は、ほかの人たちなのである。
もし、ほかの人たち(親や教師、友人、同僚、配偶者、そして時にはポッドキャストのリスナーなど)からわかりやすい評価を受け取り、それを理解して、それを活用することができなければ、私たちは世界の意味を読み取ったり、物事の意味を見出したりすることはできないだろう。したがって、人的ネットワークが広く、深く、充実していればいるほど、自分の評判、そして、スキルと資質に対する市場の評価に沿う形で、より複雑な自己概念を構築することができる。