「兵ハ凶器ナリ」--法整備の重要性を説いた山田顕義

 江藤の後を受けて、刑法(1880年公布)および治罪法(1880年公布、後の刑事訴訟法)の編纂に当たったのが、長州藩出身の山田顕義(あきよし・1844~1892)です。

 吉田松陰門下の維新の志士として活躍し、大村益次郎(ますじろう)に師事して兵学を修めた山田は、1869年(明治2)7月に兵部省が設置されると兵部大丞に任ぜられ、兵部大輔の大村を補佐して軍備・軍制の整備を推進しました。同年11月に大村が没すると、後継者として軍事行政の実務責任者となり、新たな国軍の基礎づくりに尽力します。

山田顕義(1844~1892)

 その後、岩倉使節団の理事官として渡欧し、フランスでナポレオン法典に釘付けとなり、軍制整備の基本となる法整備と、それを運用する人材育成が急務であることに思い至りました。帰国すると、すでに徴兵令が公布されており、山田はこれを時期尚早と糾弾する建白書を提出します。法律の整備と教育の重要性を説いたこの建白書には、「兵ハ凶器ナリ」という有名な言葉を残しています。

 1883年(明治16)に司法卿に就任すると、裁判官の資格制度、判事登用規則を整備して無資格の縁故採用を廃止しました。また、法学教育を受けた人材を登用する法制も整えました。1885年(明18)の内閣制度発足と同時に初代司法大臣に就任すると、フランスの法律家ボアソナードやドイツのロエスレルらによる法典の起草原案を審議し、日本の国情に合う条文草案を作成します。それが、1890年(明治23)に公布された民法・商法・民事訴訟法です。

 民法と商法が施行されるのは、山田の死後ですが、山田による旧法なくして、日本の近代法は成立しえませんでした。近代日本の法整備、法曹教育に大きな功績を残した山田は、「日本近代法の父」と称されています。

 その山田を司法大臣の職から辞任に追い込む大津事件が起きたのは、1891年(明治24)のことです。来日中のロシア皇太子に津田三蔵(さんぞう)巡査が切りつけたこの事件をめぐり、政府と司法が対立するという事態が生じます。政府は、ロシアが大津事件を口実にして日本に干渉することを恐れ、裁判所に対し津田の死刑を求告します。ところが、大審院長(現在の最高裁判所長官に相当)の児島惟謙(これたか・1837~1908)は、法律の条文にない刑罰を科すことはできないとして、これを却下したのです。

児島惟謙(1837~1908)

 児島が事件当時の内閣総理大臣松方正義と司法大臣山田顕義へ示した意見書は、法律の不当な解釈運用が、いかに国家の威信を失い外交上の失態を招くかを強調しています。強国ロシアの思惑を恐れて裁判に政治的判断を押しつけてきた政府に対し、児島は、三権分立による近代的国家の確立こそ外国に対抗しうる唯一の道であると主張して事件担当判事を励まし、最終的に無期徒刑(無期懲役)の判決を下しました。司法権の独立を守り抜いたことで、児島は「司法権独立の父」「護法の神」といわれました。

 児島は伊予国宇和島城下(現愛媛県宇和島市)出身で、脱藩した後、勤王派として戊辰戦争に参じ、維新後は新潟県、品川県の官吏を経て司法省に入り、司法卿の江藤に引き立てられます。30代半ばで司法官として歩み始めた児島が、司法の独立という強い信念を持つのは、司法省入省後、江藤の司法改革の精神と人権思想の影響を受けた賜物といえるでしょう。