『プラダを着た悪魔』と『フラガール』の対比に話を戻す。前回話したように、どちらも「路線転換」をテーマにしているのだが、アプローチというか軸足の置き所が違う。戦略論の視点からみれば、前者ではポジショニングの考え方が強いのに対して、後者は能力構築に焦点を当てている。
『プラダを着た悪魔』でのジャーナリストの卵(アン・ハサウェイ)の路線転換は、「リポジショニング」(ポジショニングの変更)として理解できる。アン・ハサウェイは自分の前に広がっていたさまざまなオポチュニティを比較検討し、それが自分のキャリアのステップとして最適だろうと踏んで、ファッション誌の編集部の仕事を選択する。
ところが、自分の将来のビジョンや能力との間にギャップを感じる。そこで最終的にはファッション誌を辞めて、より自分に適した仕事への転職を意思決定する。ようするに、アン・ハサウェイの路線転換は立ち位置の変更(の意思決定)であり、『プラダを着た悪魔』はリポジショニングの物語になっている。
一方、『フラガール』における路線転換は徹頭徹尾、能力再構築の物語。斜陽の憂き目に会っている炭鉱企業を救うために、蒼井優たちフラガールは先生(松雪泰子)の指導の下、試行錯誤を重ね、まったく新しいショー・ダンサーとしての能力をゼロから構築しようとする。
自分にとって得になるとか、自分に向いているとかいうような事前の検討や勝算は一切なし。とにかく能力再構築のプロセスに頭から突っ込んでいく。会社の上司(岸部一徳)は、そうした現場で起こる一連の能力再構築を背後や側面から支援するという役割だ。
この2つの映画に限らず、アメリカ映画(特に青春もの)にはリポジショニングを基本モチーフとしたものが多い(ような気がする)。最後はスパッとこれまでの自分に見切りをつけて、新しいポジショニングに向けて旅立つ、という成り行き。
これに対して、日本映画には能力構築モノが多い。主人公が苦労したり挫折しそうになりながら、最後の最後では努力が実って能力が開花、めでたし、めでたし……という話だ。