優れた経営者は、“理外の理”というものがあることを直感的に理解している。そのため、ビジョンや方針の共有、浸透といったものをしっかりと行いつつも、「例外を認める」「遊び心を持つ」「ほどほどにする」「とき一見無駄と思えることもすること」といったことも実践していることだろう。しかし「認識の原理」を視点とすることではじめて、こうした一見矛盾したり、中途半端にみえる態度は、原理的に求められることであることが、論理的に理解可能になる。そしてこうした「論理」を持つことではじめて、側近や幹部にもこのことの重要性を論理的に伝えることが可能になり、組織全体に「ゆらぎ」を備え、この変化が常態の動的時代を生き延びるしなやかな組織力を育むことができるのである。

いま哲学的アプローチを見直す意味

 現在の組織行動学は、心理学、社会学、人類学、政治科学といった「行動科学」の知見に基づく「応用行動科学」であるとされており、世界で最も読まれている『組織行動のマネジメント』にも「哲学」についての言及はまったくない(注4)。ではなぜ哲学はまったく見向きもされず、科学的アプローチが重要視されるのだろうか。それは妥当なことなのだろうか。この問題を考えるために、双方の起源まで遡ってみよう。

 ギリシャ時代、タレスが、神話による世界説明ではなく、はじめて「万物の根源(アルケー)は何か」と問いを立てたときに哲学の端緒が開かれたといわれる。このとき「自然哲学」と言われていたように、もともと哲学と科学はひとつのものであった。すなわち、誰もが確かめられること、代案を出せること、世界説明のためのオープンな言語ゲームであること。これが哲学的アプローチの刷新的意義であり、科学的アプローチの萌芽でもあった。しかし、その後様々な事情から、いわゆるアカデミズムの「哲学」は、その本来の機能が次第に失われ、「机上の空論」の代名詞のようになってしまった。そして科学主義の台頭以降、人文社会科学においては、統計を用いる「量的アプローチ」が科学的アプローチの代名詞のようになった(質的アプローチも広がってはきているがマイナーには変わりはなく、理論研究、本質研究に至っては掲載される雑誌自体がほとんどないのが現実である)。

 ところが、である。現在、科学は高度に細分化するにつれて、ごく一部の高度な専門知識と技術、データにアクセスできる環境にある専門家以外は実質的に確かめることはできなくなった。つまり科学の持ち味であった、検証可能性に開かれたオープンな言語ゲームという側面は極めて限定されているのである。それに対して、第5回では誰もが実践できるよう本質観取の手続きを示したように、ここで提示してきた原理的哲学は、それぞれが批判的に吟味し、確かめることができる。そして、「いや、これについてはこういう例外があるし、もっとこう置いたほうがよい」という形で、誰もが新たな原理を打ち出す開かれた言語ゲームになっている。つまり、誰もが確かめられること、代案を出せること、世界説明のためのオープンな言語ゲームであることが科学的アプローチの意義であったが、今、これを充たせるのは、むしろ“原理的哲学”のほうなのである。そういう意味で、ここで示してきた哲学は通常の社会科学よりも検証可能性に開かれた、「学問の条件」を備えていることがわかるだろう。