教訓その3:人の行動原理を考慮せよ
すでに述べたように、政策には、その措置がいかに効果につながりうるのかを示す理論がともなわなくてはならない。効果を想定するうえで拠り所となるのは、「現実の人々は環境の変化に対してどう動くのか」に関する仮定だ。政策の有効性を最終的に左右するのは、人の行動をいかに的確に想定するかである。
そのためには、国民のインセンティブと状況・文脈に関する包括的な視点が必要だ。人々は自身の環境に関して、何を望み、何を信じ、何を知っているのか。政策立案者が人の行動を変えるためには、これらの根本的な行動原理にどう影響を及ぼすかを、考慮に入れなければならない。
インドの廃貨のケースでは、「金を失いたくない」という強力なインセンティブがあったと考えて間違いないだろう。したがって、人々が無効化された現金を(非合法マネーであっても)銀行に預ける方法を見出したのは、当然のことである。
インド社会では、世界中の他の社会と同様に、マネーロンダリングのネットワークや、規則・規制を回避するための巧妙な仕組みに容易に接触できる。一例として、旧紙幣を大量に保有する人物が、それをブローカーに値引きして売り、ブローカーはそれを別のネットワークを通じて小分けにして売り捌く。それを手に入れた人は、少額で銀行に預けて監査の目を逃れるわけだ。
インド中央銀行RBIの最近の報告によれば、廃貨によって流通しなくなった現金、推定15兆2800億ルピー(2390億ドル)のうち、ほぼ99%が銀行に戻っているという。これでは、当初に唱えられていた廃貨の論拠は崩れたことになる。すなわち、紙幣を使えなくして違法な現金の保有者を困らせるという戦略は、ほぼ失敗に終わったと思われるのだ。
教訓その4:デジタルという特効薬には気をつけよ
モバイル通信とデジタル技術の採用が全世界で進み、大手ハイテク企業が自社の製品や技術を社会貢献の手段としているなか、「デジタル技術によって急速な変化を起こせる」という思想はますます広がっている。それはもちろん、この種の技術に「破壊的」という言葉がしばしば付けられる一因でもある。
このような背景の下、政策立案者は、デジタル技術の採用を拡大する何らかの施策を支持・推進したいと考える。それが変革をもたらすから、というのが論拠だ。ここで検証すべきは、経済において、デジタルの採用が進むための条件が実際に整っているのか、である。
インドの場合、違法な現金の保有を無効にするという、当初の目的が失敗に終わったことが明らかになりつつあるときに、政府は正当性を担保するために言説を変えた。廃貨は、インドを現金への依存から引き離し、取引をデジタルのプラットフォームに移行させるのに寄与するというのだ。それによって効率性と透明性を高め、eコマースを成長させ、ひいてはインドをデジタル時代へとより強力に動かすことができるという。
残念ながら、ここでも本政策の目的は達せられていない。RBIからの追加データに基づくと、デジタル取引は廃貨後に実際に急増したものの(消費者に他の選択肢がほとんどなかった時期だ)、現在では量・価額ともに最高水準を下回っている。廃貨以降のデジタル取引の伸びは、月を追うごとに小さくなっているのだ。
モバイル環境における銀行口座間の即時送金を可能にする決済システム、UPI(統合決済インターフェース)を例外として、他のデジタル決済取引はすべて尻すぼみになっている。総合的に考えると、デジタル技術の採用におけるこのささやかな変化は、長い目で見れば成果をもたらしうるだろう。だが、1つの決済システムを促進するために、なぜ国家の現金の86%を無効にすることが必要だったのかは明確でない。
廃貨後に、デジタル決済の採用が予想されたほど進まなかった理由を探るうえで、インドの人々の体験が参考になる。それには、デジタルの採用を後押しする要因を理解する必要がある。要因の1つは、デジタル体験の質だ。普及策を実施しても、人々の環境やインセンティブが変わらず、しかもデジタル体験がお粗末なものであれば、彼らはデジタル以前の現状へと戻っていくだろう。
我々(タフツ大学フレッチャー校の研究チーム)はマスターカードとの協働で、世界の国々をデジタル経済の競争力と信頼度の観点から比較した(Digital Planet 2017)。デジタル環境に存在する「摩擦」(規制、インフラ、個人情報の安全性、インターフェース、の4点における不便)の程度に基づき、オンライン取引の際の「スピード、質、使いやすさ」で42ヵ国を順位付けしたものである。
インドは41位であった。お隣のパキスタンに次いで、最下位から2番目だ。ここから得られる教訓は、ユーザーがインフラの機能を信頼できない限り、デジタルの採用は進まない、ということである。政策の中で、デジタル体験における摩擦解消にも同時に取り組むのでなければ、テクノロジーで大きな変革をもたらすことなど企図してはならない。
世界中のリーダーは、勇気をもって大胆な政策を採るようプレッシャーにさらされている。しかし、政策は実質的な影響をともなうものであり、その影響が広がる道筋を読み説くのは、困難で複雑な行為だ。政治運動中の公約で決断力を示せば、短期的には政治的メリットがあるかもしれない。だが経済へのマイナスの影響は、もっと長期的なリスクを招き、最終的には災いとして返ってくるのである。
政策立案のプロセスでは、ふさわしい専門家を慎重に選んで相談し、理論と根拠の両方に立脚するよう万全を期すことが望ましい。インドにおける廃貨の大失敗は、すべての人にとって教訓となるべきである。
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バスカー・チャクラバルティ(Bhaskar Chakravorti)
タフツ大学フレッチャー・スクール上級副学部長。インターナショナル・ビジネス&ファイナンスを担当。同スクールのインスティテュート・フォー・ビジネス・イン・ザ・グローバル・コンテキストを創設しエグゼクティブ・ディレクターを務める。著書にThe Slow Pace of Fast Changeがある。