こういった時期には、生産的でない、というのが大切なのかもしれない。成長のための余白を生むためにも、非生産的であろうと感じなければいけないのだと思う。境界で立ち止まり、いまこの瞬間がひたすら尋ねてくる次の問いとともに、たゆたうことを自分に許すのだ。

「どうやったら自分が変化させられる状態にあれるか」

 どのように自分が変わる「べき」か、ではない。変わる世界に合わせてどのように自分が変わらなければ「いけない」か、でもない。もちろん、どうやったら自分が「変わらず」にこれまで通りのやり方を維持できるか、でもない。

 自分がどう変わるべきか、といった問いは、生産性と達成をとことんまで追求してしまう、私たちの習慣からきている。しかし、こうした質問設定は、いまこの瞬間が持つ魔法と変容の力を見落としており、私たちも本当に成長できる機会を逃してしまう。

 いま世界で起きている変化は、個人的であり、グローバルでもある。この変化が、あなたを押し流し、あなたの世界の見方を変え、あなた自身を変える、ということに身を任せられるだろうか。

 自分の規律や牽引力からではなく、自分が方向を決め、戦略的で目標に向かおうとする気持ちからでもなく、心を開き、ありのままの弱い自分でいる。自分の意図で動こうとするのではなく、何が起きても、それを喜びとともに受け入れていく気持ちを持つ。

 そうやって立ち止まり、心を開き、ありのままの弱い自分でいる。そこで聞こえてくる声、そして感じるかすかな突きに耳を傾けることができるだろうか。これが正しいと自分が感じることに向かって一歩ずつ予感を追っていく、感情の勇気(emotional courage)を自分の中に見出せるだろうか。

 私はどうかといえば、父の死で感じている喪失、そして彼の人生の恵みが自分を変えることを、喜びとともに受け入れたいと願っている。

 父の笑顔を二度と見ることができない、あの力強く優しい手を自分の背に感じることはもうないということに悲しみを感じる。同時に、父を想うとき、いままで以上に彼の存在を感じることにわくわくする。そうすると、少しずつではあるけれど、自分自身の笑顔と自分自身の手を感じるようになる。そして、いままでよりも寛容に、優しく、力強く、人にも寄り添えるようになっていけるだろう。

 私たちには、感情の勇気が必要だ。なぜなら、変化させられることを喜んで受け入れるには、「自分はコントロールしていない」「自分にはわからない」ということを受け入れ、認めないといけないからだ。

 私たちの多くが、この2つを認めたくないがゆえに、奪い合い、獲得し、競い、成功し、ワーカホリックになることに人生を費やしている。手放し、自分がコントロールしているというのは思い込みにすぎないと気づき認めると、どこに向かっているのかわからなくなって混乱する。どこに立っているのかわからなくなる。

 だからこそ、スピードを上げるのではなく落として、心を開いて弱い自分のままでそこに立ち止まり、感じ、いまこの瞬間に近づくことは、本当に、本当に、難しいのだ。

 では、このような時期に自分自身を助けるために何ができるのか。

 実は、これは間違った質問だ。これまで私は、スピードを落として変化のための余白をつくるためのアドバイスについてたくさん読んできたし、実践もしてきた。

 瞑想、詩作、散歩、ジャーナリング、夢のワーク……しかし、スピードを落とすためのこうした行動は、より多くのやることにつながるので、かえって妨げになってしまう。問題をつくり出した思考と同じ思考で解決しようとしているのである。

 私なりの代わりの方法は、「何もやらない」、少なくとも「やることを減らす」である。何もやらない、の時空に入るための方法がいくつかある。もしよかったら試してみてほしい。