なぜ不平を訴えるのか
不平を訴えることのすべてが悪いわけではない。困難な状況について同僚に時折愚痴をこぼしたり、ネガティブな感情を表出したりすることで、自分の懸念を外に出して、起こりうるストレス反応を軽減できる。感情を抑制することは、問題を明らかにしてその原因を突き止めることを阻むおそれもある。
人はまた、自分の気分をよくするためにも不平を訴える。ピーターの例に戻ると、自分を取り巻く状況がどれほど不公平で不快であるかをリサにわかってほしくて、何らかの感情的なつながりをつくりたかったのだろう。
だが、不平は権力を行使したり見識に影響を及ぼしたりするための一手段として使うこともできる。特に政治的駆け引きの温床である組織内では、他人の支持を得るために不平を使う。このように解釈すると、ピーターは組織内の一部の人たちが間違っているという自分の見解に、リサを同調させようとしていたのかもしれない。
多くの場合、常習的に不平を訴えることは、人生の早期から始まる。家族の中で注目を引き、人間関係を築く手段として使われるのだ。
このような幼少期の経験は行動様式に深く根づくことになる可能性があり、ピーターの場合は本人のアイデンティティの一部になっているのかもしれない。彼がアドバイスにうまく応じられない理由はここにあるのだろう。問題が解決されてしまったら不平を言う理由がなくなり、本人の自己認識が脅かされるからだ。
不平家に対処する
常習的な不平家を助けようとしても、その効果は薄いか、あるいは皆無ということが多い。おそらくピーターは解決策を求める代わりに、自分が置かれた状況の悪い面に目を向け続けるだろう。そのため常習的な不平家に対処することは、とても腹立たしいのだ。
したがって、明らかな境界線を設けることから始めるほうがよい。リサは、ピーターの話をきちんと聞き、話し合う準備はあるが、何度も同じ対話を繰り返すつもりはないとピーターに告げる必要がある。
同じことをくどくどと繰り返すのは、どちらにとっても利点はない。ピーターが不快であると理解したこと、ただしピーターの絶え間ない不平に組織全体が辟易していることの両方をリサは告げるべきだ。
リサはまた、誰でも不平を言うものだが、大半の人はほどほどのところでやめること、そして不満を伝える正しい方法と間違った方法があることも指摘すべきだ。物事を実際にポジティブな方向へと変化させるような不平は有益だが、いまのピーターの不平の伝え方は建設的ではない。
次に、リサはピーターに対して、視点を変えたほうがずっとよいとはっきり伝えるべきである。目的意識のある不平や先を見据えた視点は、ネガティブな考え方から脱却するための指針になるだろう。
結局のところ、自分の身に降りかかった悪いことすべてについて愚痴や不平を言う時間があるならば、ピーターは悪いことに対処するための時間もつくる必要がある。単に同情を得るためではなく、問題を改善したり解決したりするために不平を言うべきである。
加えて、リサはピーターに感謝する姿勢を身につけるよう提案するとよい。不平を言いたくなった時には、常にそれを危険信号と捉えて自分の注意をシフトさせ、不平を言う代わりに自分がいかに恵まれているかについて考えるのである。そうすることで、自分の気分が向上することに気づくだろう。自分にはもっと活力があると感じ、不安が軽減するかもしれない。
もちろん、実際に姿勢を変化させるのは時間がかかる。しかし、その過程でコーチや心理療法士に助けを仰ぐことも可能である。こうした専門家は、被害者意識に陥りやすい傾向や常に他人からの承認を求める理由、不平を言いたくなっても異なる反応を示せるようになるための方法などを、本人と一緒に探求できる。
常習的な不平家は、表面的には無害に見えるものの、同僚や自分自身のために自分の行動を律する必要がある。最終的に、人はネガティブな考え方にうんざりしてしまう。
きしむ車輪に必ず油が差されるとは限らない。つまり、騒ぎ立てることで要求が常に聞き入れられるわけではないと、ピーターは気づく必要がある。きしむ車輪は取り換えられ、外されることもあるのだから。