経営学のレンズで「ビジネスの常識」を捉えなおす
サマリー:ビジネスパーソンはもちろん、学生や研究者からも好評を博し、12万部を突破した入山章栄氏の著書『世界標準の経営理論』。入山氏がこの執筆過程で感じたのが、世界の経営学とはまた異なる、日本の経営学独自の豊かさ... もっと見るや面白さであった。本連載では、入山氏が日本で活躍する経営学者と対談し、そこで得られた最前線の知見を紹介する。連載第8回では、慶應義塾大学の松本陽一氏に登場いただく。前編では松本氏が経営学のトップ学術誌であるStrategic Management Journalに2022年に発表した論文などについて入山氏が迫る(構成:肱岡彩)。 閉じる

経営学のトップ学術誌に掲載された論文

入山:松本先生のご研究の中で最も注目すべきなのが、2022年に経営学のトップ学術誌であるStrategic Management Journalに掲載された論文″Dynamic resource redeployment in global semiconductor firms"だと思います。

 まずは、松本先生がセ・ジン・チャン先生と発表されたこの論文の内容から伺えますか。私も当然拝読したのですが、この論文では市場への参入・撤退というシンプルな2択で語られがちな企業の行動について、異なる見方を提示しています。

 現実世界において、企業は既存事業を拡大するように市場に一部参入したり、リソースを再配置して一時的に事業から撤退したりもします。つまり、企業は単純に参入・撤退するのではなく、ポートフォリオで考えていると指摘したことが評価されたという認識なのですが、よいでしょうか。

松本 陽一(まつもと・よういち)
慶應義塾大学 商学部 准教授
慶應義塾大学総合政策学部卒業、同大学院政策・メディア研究科修士課程および後期博士課程修了。2008年4月から神戸大学経済経営研究所講師、同研究所准教授を経て、2020年4月から現職。2016年8月から2018年4月までシンガポール国立大学NUSビジネススクールVisiting Research Associate Professorを兼任。国内外の学術誌に論文を発表しているほか、共著に『イノベーションの相互浸透モデル:企業は科学といかに関係するか』(白桃書房、2011年)、『日本企業のイノベーション・マネジメント』(同友館、2013年)などがある。

松本:そうです。論文の査読(投稿された論文を審査員<多くは当該分野のトップクラスの研究者>が読み、その内容を評価したり、フィードバックしたりすること)の時も、編集者からその部分にもっとフォーカスした方がよいとコメントをもらいました。

入山:シンプルですけど、この視点は私も本当に素晴らしいと思いました!松本先生ご自身は、あらためてこの論文はどのような貢献があったと思われていますか。

松本:まさに参入と撤退だけではない、ここではDeepening(深耕)とRetrenchment(縮小)と言っていますが、事業をゼロから始めるわけでもないし、100%やめるわけでもない。組織内での資源のやり取りを、よりビビッドに描き出せたことが大きな貢献だと思っています。

入山:この論文ですごいと思ったのは、「理論的貢献」を前面に出していないにもかかわらず、SMJというトップ学術誌に掲載されているところなんです。

 私が海外のトップ学術誌に論文を投稿し、掲載まで至らない時は、たいてい「理論が弱い」というフィードバックをもらいます。「この論文の理論的貢献は何なのか」と。経営学では、トップクラスの学術誌に論文を載せるには特定の理論への貢献が重要とされますからね。

 それに対してあくまで松本先生の論文は、理論を複数使っていてダイナミックケイパビリティを取り上げたHelfatらの論文を引用しているかと思えば、リアルオプション理論の話も入っている。失礼な言い方かもしれませんが、複数の理論を使っているので理論的貢献はそれほどシャープでないとも言えます。理論から研究がスタートしているのではなく、「現象サイドですごく面白いことがあって、誰も研究してないから、そこを掘り下げました」という構成ですよね。

 理論的貢献が前面に出ていないにもかかわらず、トップ学術誌であるSMJへの掲載まで至っています。SMJは比較的そういうクセのある学術誌ではありますが。その点について、どう思われていますか。

松本:この論文は、そもそも出発点が理論ではないので、理論的貢献は弱いと思います。理論ではなくデータありきで、そこからどんな研究ができるのか、他の人にはできない研究は何かと考えるところからスタートしました。

入山:なるほど。そういう意味では、私が言うのも僭越ですけど、松本先生の目指している方向性と共著者のセ・ジン・チャン先生が持っている強みの相性が、非常によかったのかもしれないですね。セ・ジン・チャン先生は世界的な経営学者ですが、とても現象サイドからアプローチする研究に強い、という印象を私も持っていたからです。